...謀叛(むほん)の聞(きこ)えありて鎌倉(かまくら)の討手(うつて)佐々木三郎兵衛入道西念としば/\戦(たゝか)ひて終(つひ)に落城(らくじやう)せり...
京山人百樹刪定 「北越雪譜」
...その西念寺に葬つたのであるといふこと...
田山録弥 「大阪で」
...法蔵寺横町(ほうぞうじよこちょう)だとかあるいは西念寺横町(さいねんじよこちょう)だとか呼ばれた寺の多い横町へ曲って...
永井荷風 「日和下駄」
...西念寺(さいねんじ)の急な坂下に依然として剥(はげ)ちょろのブリキ屋根を並べている...
永井荷風 「日和下駄」
...同時代に乙の寺の縁起に載て居る西念と...
原勝郎 「鎌倉時代の布教と當時の交通」
...何故と云ふに、東國と西國とを論せず、眞宗の傳播の仕方は餘程外の宗旨と違て居る所がある、他の宗旨で云へば、一人の名僧が足に任せて數箇國を行脚して、數多の歸依者改宗者を作ると云ふ順序になるのであるが、眞宗にありては右の如く諸國を遍歴する僧侶の全く無いではないが、甚僅少である、鎌倉時代に於ける眞宗は、潮の押寄せる樣に、洪水の氾濫する樣に、連續性を以て將棊倒しに傳播したもので、若干の個人が奔走した結果のみではない、他の宗旨から改宗した僧侶は、妻帶して其寺に居直つて、財産を私有にして動かない、俗人の改宗したものは、私宅を變じて寺としたとは云ふものゝ、今日で謂ふ説教所を開始したので、其寺號は數十年、若くは數百年の後に、始めて本願寺から許可になつたものである、故に斯かる俗人の説教所開始以後も、以前と同樣俗事に忙はしく鞅掌したのみならず、僧侶にして改宗した連中も以前より一層深く、而かも公然俗事の間に沒入し、中々遠國などへ布教に出かける餘裕はない、斯樣の次第であるから、眞宗では同一の僧侶の手で數個の寺が開かれた例が甚乏しく、從ひて布教の徑路を探ぐることが困難である、けれども今其等少數者の場合につきて考へると、關東に眞宗を流布せしめたのは、開祖親鸞の外、其弟子と稱する眞佛、了智、教名、明光、親鸞の孫唯善、其外明空、性信、西念、唯信、教念、善性、了海等である、中にも眞佛の一派は最盛に東國に布教した而して其基線より更に東北に進んだ眞宗僧には、陸奧に入つたものに前に擧げた性信や親鸞の弟子の是信房や、無爲信などゝいふ者があり、出羽の方へは淨土、禪と同樣越後からはいつて、明法や源海などゝいふ人があつた、しかしながら眞宗は禪宗ほど北陸に侵入はしなかつたのである...
原勝郎 「鎌倉時代の布教と當時の交通」
...埼玉県南埼玉郡萩島村野島)東京でも下谷金杉(したやかなすぎ)の西念寺(さいねんじ)に...
柳田國男 「日本の伝説」
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