...こういう凡人の相貌を芸術化するという稀有(けう)な役割を持つ能面が、野卑な悪写実に走らずして、最も高雅な方向に向ったのは、一に当時の洗煉(せんれん)された一般的美意識によると共に、能楽という演技そのものが、その発祥を格式を尚(たっと)ぶ社寺のうちに持ち、謡曲のうしろには五山の碩学(せきがく)が厳として控えて居り、啓書記、兆殿司(ちょうでんす)、斗南、鉄舟徳済というような禅門書画家の輩出数うるに遑(いとま)なきほどの社会的雰囲気の中に育ち、わけて天才世阿弥のような実技者のきびしい幽玄思想に導かれた事によるのである...
高村光太郎 「美の日本的源泉」
...明治の初年には此地に弘前・黒石・八戸・七戸(シチノヘ)および斗南(トナミ)の五藩ありしが...
太宰治 「津軽」
...遂ニ自ラ号シテ斗南狂夫トイフ...
中島敦 「斗南先生」
...『斗南存稾(となんそんこう)』と題されている...
中島敦 「斗南先生」
...この『斗南存稾』を前にしながら...
中島敦 「斗南先生」
...軽い罪ほろぼしの気持で『斗南存稾』を大学と高等学校の図書館に納めることにした...
中島敦 「斗南先生」
...おれは斗南(となみ)から...
久生十蘭 「奥の海」
...斗南(となみ)の白並(しらなみ)というところにある御船番所の御小人に推挙してくれた...
久生十蘭 「奥の海」
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