...後醍醐天皇は建武の新政を行った...
...足利義満は、建武の新政期に尊皇攘夷を唱えて挙兵した...
...室町幕府が開催した政治・文化・芸術の祭典には、建武祭や菊の御所祭がある...
...何でもその御寺は聖徳太子の御建立で元弘建武の動乱の折に所領も何も失ってしまい...
谷崎潤一郎 「三人法師」
...封建武士を中心として組織したる社会...
徳富蘇峰 「吉田松陰」
...封建武士は、余所(よそ)の花を傍目(はため)に眺めて暮らすの外、別に妙手段もなし...
徳富蘇峰 「吉田松陰」
...東大国史科教授(朱光会員)平泉澄博士(「建武中興」・「ドイツ精神」等々がそのテーマ)...
戸坂潤 「日本イデオロギー論」
...さうしてたとへ一時なりとも建武中興といふやうな大改革をなさしめた所以であります...
内藤湖南 「日本文化の獨立」
...曰く建武中元二年...
内藤湖南 「卑彌呼考」
...光武の建武中元二年に奉貢せしも...
内藤湖南 「卑彌呼考」
...因て思ふに魏略の原文は建武中元より願二請見一に至るまでは...
内藤湖南 「卑彌呼考」
...僅かに建武中興の程度に止めてしまい...
中里介山 「大菩薩峠」
...しかしてこの傾向は承久の役の鎌倉の勝利および建武中興の不成功によりて...
原勝郎 「東山時代における一縉紳の生活」
...事のおこりはこの建武元年の正月...
吉川英治 「私本太平記」
...中でも「建武記」に誌(しる)されている建武元年夏八月の“二条河原落書”などはその代表的なものといえようか...
吉川英治 「私本太平記」
...明けた年は、建武三年...
吉川英治 「私本太平記」
...――何条(なんじょう)、正成一個のとぼしい智略や力などでありましょうや」「おう、それほどな謙虚(けんきょ)を持つなら、なぜふたたび、御稜威を負って、千早の勇猛心を、さらに振ッてみせんとはしないのか」「いや、もはや人心は、残念ながら、数年前のものではありません」「変ったと申すのか」「申すは憚(はばか)りながら、建武の御新政に、望みを失い、結局、武家は武家の棟梁(とうりょう)を立てて栄えるに如(し)かずと、ここ大きく狡(ずる)く変ってまいりました...
吉川英治 「私本太平記」
...おそろしいものだな」「因縁といえば、建武の年、直義さまが大塔ノ宮を殺(あや)めさせたのも、所はこの鎌倉だった...
吉川英治 「私本太平記」
...それが、建武年間、正平以後にかけてまで、半世紀余の血みどろを地上に現じ出してしまったのは、いったい誰の所業か、何の作用か、私は人間同士の住むこの世には、何か「誰」と指摘できない摩訶(まか)不思議な素因がどこかに跳梁(ちょうりょう)している気がしてならない...
吉川英治 「随筆 私本太平記」
...博物館で昭和何年かに“建武遺芳展覧会”をやったときは...
吉川英治 「随筆 私本太平記」
...建武(けんむ)の平和もつかの間でしかなかった...
吉川英治 「日本名婦伝」
便利!手書き漢字入力検索