...死なば同じ浪枕(なみまくら)とや)女賊後柏原(ごかしわばら)天皇大永(たいえい)年間...
太宰治 「新釈諸国噺」
...大永五年八月には鎌倉に...
田中貢太郎 「日本天変地異記」
...その前とあととに続く無限の大永劫(だいえいごう)の中に没入していることを思え...
中島敦 「悟浄出世」
...大永七年に花山家からして借入れを申込まれた時に...
原勝郎 「東山時代における一縉紳の生活」
...それは大永五年のことであるからして...
原勝郎 「東山時代における一縉紳の生活」
...地子は大永五年の年末に二十疋とあるからあまり多くはなかったろう...
原勝郎 「東山時代における一縉紳の生活」
...三栖の年貢米は日記大永七年十月二十八日の条に四斗を般舟院から受け取ったとあるが...
原勝郎 「東山時代における一縉紳の生活」
...実隆の晩年大永七年ごろになると...
原勝郎 「東山時代における一縉紳の生活」
...しかしてその翌年になると安宗左衛門という者が代官に補任され、大永四、五年ころの公用は、五貫三百文というのが定額と認められた...
原勝郎 「東山時代における一縉紳の生活」
...日記大永七年四月肖柏堺に歿した記事の中にも見えるとおりであるのみならず...
原勝郎 「東山時代における一縉紳の生活」
...大永八年に連歌付句合点のことを依頼に来た...
原勝郎 「東山時代における一縉紳の生活」
...大永四年に家康の祖父岡崎次郎三郎清康が...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...その勢力は微少(びしょう)だともいえるが、尼子一族と毛利家との闘争は、実に大永年間、毛利元就(もうりもとなり)が尼子経久領を奪取(だっしゅ)して以来のもので、以後五十余年の長きあいだを、子々孫々にかけて、尼子一族は毛利打倒の戦いを歇(や)めていないのであった...
吉川英治 「黒田如水」
...「彼等は実に、大永四年以来、五十七年の長き間を、怨敵(おんてき)毛利家と戦いつづけ、父子二代三代にかけて、尼子の再興を念願し、こうして織田軍の西下を機に、信長公におすがりして、味方となって一功をも挙げて来た者なのに――今、それを打ち捨てて尼子勝久も山中鹿之介をも、見殺しに遊ばされては、この秀吉ごとき一将の立場はともあれ、信長公ともある御名(おんな)の名折れ、やがて中国筑紫(つくし)の果てまで、ご征伐を遂げられた後々まで、世(よ)の誹(そし)りのたねとなろうに……...
吉川英治 「黒田如水」
...大永年間の人で、鹿島神流の中興の祖松本備前守を初めとして、天真正伝神伝流の開祖、飯篠(いいざさ)長威斎もすでに遠い古人であるが、常陸の産であると聞いている...
吉川英治 「剣の四君子」
...大永(たいえい)の昔から住んで来て...
吉川英治 「新書太閤記」
...毛利氏と尼子氏との宿怨(しゅくえん)は、大永三年、尼子経久(つねひさ)と毛利元就(もとなり)との手切れ以来であるから――その間の興亡流血は、ことし天正六年まで、実に五十六年間にわたる悲壮な闘争をつづけて来たわけである...
吉川英治 「新書太閤記」
...一五二六年(大永六年)のクリスマスには...
吉川英治 「随筆 新平家」
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