...問ヘバ二諸ヲ史官ニ一...
秋月種樹 「南洲手抄言志録」
...博士重野某職を史官に奉じその徒と共に考索する所あり...
津田左右吉 「史論の流行」
...普通これを夏の時代の史官が書いたと考ふるのが從來の説である...
内藤湖南 「禹貢製作の時代」
...禹が天子に奏した事柄を史官が之を藏して居つたのに潤色を加へて本となつたのだといふ樣なことを宋儒が唱へた...
内藤湖南 「禹貢製作の時代」
...古史官の書いたものだから...
内藤湖南 「支那古典學の研究法に就きて」
...史記は史官の家の著述として出來た...
内藤湖南 「支那史學史概要」
...史官の精神が入らなくなつた...
内藤湖南 「支那史學史概要」
...これは三代以來の史官の法が遺つてゐるのであると稱し...
内藤湖南 「支那史學史概要」
...史官の直筆が出來なくなると云つた...
内藤湖南 「支那史學史概要」
...道家は史官に出づとあり...
内藤湖南 「支那目録學」
...而して塾長の小牧善次郎氏はこれも史官を拝命して陛下の御東幸に供奉することになったので...
内藤鳴雪 「鳴雪自叙伝」
...司馬氏は元(もと)周(しゅう)の史官であった...
中島敦 「李陵」
...「汝を太史官(たいしかん)に補(ほ)して...
吉川英治 「三国志」
...はじめ、堂上では、「ただのおん輿(こし)で忍びやかに」との説もあったが、義貞や千種忠顕(ちぐさただあき)の意見として、「このさい、さながら御落去(ごらっきょ)のようでは、いやがうえ、士気を沮喪(そそう)させましょう」と、堂々たる行装がすすめられたため、鳳輦(ほうれん)が用いられ、全公卿、全武士の供奉(ぐぶ)となって――吉田内大臣忠房竹林院ノ大納言公重(きんしげ)御子左(みこひだり)為定四条隆資(たかすけ)、同、隆光左中将定平(さだひら)中御門(なかみかど)ノ宰相(さいしょう)宣明(のぶあき)園の中将基隆(もとたか)甘露寺左大弁(さだいべん)藤長一条ノ頭(とう)の中将行房坊門の清忠等々の殿上(てんじょう)から、外記(げき)、史官、医家、僧門、諸大夫の女房らにいたるまでの総移動も同時となったものだった...
吉川英治 「私本太平記」
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