...龜戸の某は十六頭殺した...
伊藤左千夫 「水害雜録」
...大地を負へる龜を負ふものの何物なるかを究むるを寧ろ賢なりとせむ...
高山樗牛 「美的生活を論ず」
...およしに扮する太郎に繪筆を投げてうつとりとしてゐたおしのさんは、龜屋を出る時、「あれで女形で通すんでせうか」ときく...
竹久夢二 「砂がき」
...辨天樣の池畔などで、ぐつたり寢そべつて甲羅を干してゐるのは、あれは、いしがめとでもいふのであらうか、繪本には時々、浦島さんが、あの石龜の脊に乘つて小手をかざし、はるか龍宮を眺めてゐる繪があるやうだが、あんな龜は、海へ這入つたとたんに鹹水にむせて頓死するだらう...
太宰治 「お伽草紙」
...ただの海龜ではあるまい...
太宰治 「お伽草紙」
...」龜もちよつと耳をすまして聞いて...
太宰治 「お伽草紙」
...」龜は先刻から、ただ默々と鰭を動かしてゐるばかり...
太宰治 「お伽草紙」
...」龜は返事をせず...
太宰治 「お伽草紙」
...われわれの善良な龜は...
太宰治 「お伽草紙」
...それが後になつて日本では天文、永祿から元龜、天正の頃になりますと、武家が各々自分の兵法を發明して、武田家は武田流、北條家は北條流と云ふのが出來ましたが、之も實は武田信玄の存生中に武田流が出來、北條氏康の時に北條流があつたのではなく、多くは其の家が亡びてから何々流と云ふのが世の中に現れて、一種の兵法學者の看板で飯を食ふ人間が出來たのであります...
内藤湖南 「日本國民の文化的素質」
...人間の智惠の及ぶ限り龜の卵の事を知つて居るであらう...
新渡戸稻造 「教育の目的」
...善公を龜澤まで送つてやれ」「へエ」これも上がり框(かまち)で泣いて居た樣子でした...
野村胡堂 「錢形平次捕物控」
...お品は龜澤町へ別れました...
野村胡堂 「錢形平次捕物控」
...私には此の丘の上にある龜甲形の...
濱田耕作 「沖繩の旅」
...龜さんは荷物をおろして...
林芙美子 「龜さん」
...龜さんはかわいた固いこうらをほこりまぶれにして...
林芙美子 「龜さん」
...赤ン坊は背中で機械の龜の子のやうに...
若杉鳥子 「烈日」
...でつけえ龜が……』村に知らせにでも行くか...
若山牧水 「鴉と正覺坊」
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