...はるか離れた船艙(せんそう)の出口に田川夫妻と鼎(かなえ)になって...
有島武郎 「或る女」
...自分と藻外と三人鼎足的(ていそくてき)関係のあつた花郷(かきやう)を訪ねて見やうと...
石川啄木 「葬列」
...この一癖が馬琴の鼎(かなえ)の軽重を問わしめる...
内田魯庵 「八犬伝談余」
...鼎座(ていざ)して相語って忽ち器識の凡ならざるに嘆服し...
内田魯庵 「二葉亭四迷の一生」
...江戸には鼎(かなえ)の湧くような騒ぎが起った...
大隈重信 「青年の天下」
...三人鼎坐して杯を執る...
大町桂月 「獨笑記」
...集るもの温亭、石鼎、雉子郎、花蓑(はなみの)、秋桜子(しゅうおうし)、青邨(せいそん)、たけし等...
高浜虚子 「五百句」
...王鼎は耳に入れずにまた船に乗って鎮江の方へ往った...
田中貢太郎 「蘇生」
...一番後をあるいている囚人の容貌がどうも兄の鼎に似ているので...
田中貢太郎 「蘇生」
...巨大の鼎据ゑ付けて...
ホーマー Homer 土井晩翠訳 「イーリアス」
...而して二人賭けられし鼎獲るべく奮然と長く激しく爭へり...
ホーマー Homer 土井晩翠訳 「イーリアス」
...田口鼎軒が専門家で福沢諭吉が啓蒙家だとして...
戸坂潤 「思想としての文学」
...関東も関西も鼎(かなえ)のわくような騒ぎ...
中里介山 「大菩薩峠」
...王城の地はその鼎沸(ていふつ)の中心に置かれても...
中里介山 「大菩薩峠」
...鼎斎は安政三年正月七日に五十八で歿した...
森鴎外 「渋江抽斎」
...五百は鼎斎を師とした外に...
森鴎外 「渋江抽斎」
...鼎軒先生には一度もお目に掛かつたことがない、私は少壯の頃、暇があれば本ばかり讀んでゐたので名家の演説などをもわざ/\聽きに往つたことが殆ど無い、そこで餘所ながら先生のお顏を見る機會をも得ないでしまつた、先生がアアリア人種に日本人も屬するといふことを論じた小册子を出された頃であつた、友人上田敏君が宅の二階に來て、話をしてゐられた、私はふいと思ひ出して、かう云つた、「僕は此頃田口卯吉と云ふ人の書いた本を見たが、日本人がアアリア人種だと云ふ論斷がしてある、そしてその理由として擧げてある言語學上の事實が、間口ばかり廣くて手薄である、學者はあんな輕卒な論斷をしては困るぢやないか、」かう云ふと、上田君が愛敬のある疊なり合つた齒を見せて、意味ありげに笑つた、「田口さんは僕の親類だ、」此時私は始て田口上田兩家の關係を知つた、そして鼎軒先生が幾分か自分に接近して來られたやうに感じた、その後幾年か立つた、或る日又上田君が來て話してゐる間に、かう云はれた、「今度田口の子が卒業して君の部下になるから、どうぞ使つて遣つてくれ給へ、」これが文太さんが陸軍の藥劑官になつた時の事であつた、それから何處やらまだ坊つちやんらしい處の殘つてゐる文太さんに、役所でも役所の外でも次第に心安くなつて、間接に故人鼎軒先生に接近するやうな心持がして來た、彼此するうち、先生の七囘忌が來た、そこで上田君からも文太さんからも、私に何か言へと云ふことである、私は何を言つたら好からう、先生には公生涯と云ふ一面と、學者の經歴と云ふ一面とがある、公生涯の方は私は餘り縁遠いから、何とも云ひ兼ねる、只學者としての鼎軒先生に就いて、大體の事が云ひたい、併しかう引離して、先生の一面丈を説くと云ふことは、稍無理になりはすまいかと思はれる、それは先生の公生涯と學者生涯とは密接してゐるからである、先生のあらゆる學問上の意見には、デモクラチイの影でないまでも、デモクラチスムの影を印してゐる、それで官學と違ふ、此點から言ふと、鼎軒先生の學問は福澤先生に近い、私は一般の人格の上から、兩先生を軒輊しようとは思はない、併し學問に於いては、鼎軒先生の勝つてゐられる處がある、私はそれが言ひたい、私は日本の近世の學者を一本足の學者と二本足の學者とに分ける、新しい日本は東洋の文化と西洋の文化とが落ち合つて渦を卷いてゐる國である、そこで東洋の文化に立脚してゐる學者もある、西洋の文化に立脚してゐる學者もある、どちらも一本足で立つてゐる、一本足で立つてゐても、深く根を卸した大木のやうにその足に十分力が入つてゐて、推されても倒れないやうな人もある、さう云ふ人も、國學者や漢學者のやうな東洋學者であらうが西洋學者であらうが、有用の材であるには相違ない、併しさう云ふ一本足の學者の意見は偏頗である、偏頗であるから、これを實際に施すとなると差支を生ずる、東洋學者に從へば、保守になり過ぎる、西洋學者に從へば、急激になる、現にある許多の學問上の葛藤や衝突は此二要素が爭つてゐるのである、そこで時代は別に二本足の學者を要求する、東西兩洋の文化を、一本づゝの足で蹈まへて立つてゐる學者を要求する、眞に穩健な議論はさう云ふ人を待つて始て立てられる、さう云ふ人は現代に必要なる調和的要素である、然るにさう云ふ人は最も得難い、日本人に取つては、漢學をすると云ふことが、既に外國の古代文學を學ぶのである、西洋人が希臘羅馬の文學を學ぶと同等の難事である、その上に又西洋の學問をしなくてはならない、それも單にポリグロツトな人には比較的容易になられよう、猶進んで西洋の文化が眞に味はれるやうにならうと云ふのは隨分過大な望みである、私は鼎軒先生を、この最も得難い二本足の學者として、大いに尊敬する、先生が一本の足で西洋の文化をどれ丈しつかり蹈まへてゐられたか、他の一本の足で東洋の文化をどれ丈しつかり蹈まへてゐられたか、それを一々具體的に研究するのは、頗る興味のある問題であらう、憾むらくは私は今それ程の餘裕を有せない、只大體から見れば、先生の重點は西洋文化の地面に落ちてゐた、併し隨分幅廣く股を開いて、東洋文化の地面をも蹈んでゐられた、先生は西洋文化の眼を以て東洋文化を觀察して、彼を我に移して、我の足らざる所を、補はうとしてゐられた、先生は此意味に於いて種子を蒔いた人である、併し其苗は苗の儘でゐる、存外生長しない、それは二本足の學者でなくては先生の後繼者となることが出來ないからである、その二本足の學者が容易に出て來ないからである、そして世間では一本足同士が、相變らず葛藤を起したり、衝突し合つたりしてゐる、...
森林太郎 「鼎軒先生」
...それに鼎足(ていそく)の象(かたち)をとり...
吉川英治 「三国志」
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