...自分は隣家(となり)の謡曲家に決闘を申込む位は厭(いと)はないが...
薄田泣菫 「茶話」
...況(いわ)んや隣り近所や東京市民や日本人民や乃至(ないし)世界全体の人の意思に背いても自分には立派に義理が立つ訳であります...
高浜虚子 「漱石氏と私」
...右側に隣の家の煉瓦塀(れんがべい)があった...
田中貢太郎 「水魔」
...君がそこへ行けと云うなら」「けれども商売のほうはどうする?」「隣の家に住んでる男がどこかへ出かける時はいつも僕が留守を預かってやっていたから...
コナンドイル Arthur Conan Doyle 三上於莵吉訳 「株式仲買店々員」
...隣の息子(むすこ)が雌を連れて来て...
徳冨健次郎 「みみずのたはこと」
...村入当時私は東隣の墓地の株に加入を勧められました...
徳冨健次郎 「みみずのたはこと」
...主観の隣接した視界に於ては...
戸坂潤 「社会時評」
...天下は麻の如く乱れて、四隣みな強敵だ...
中里介山 「大菩薩峠」
...隣の部屋まで入つて來ると...
野村胡堂 「錢形平次捕物控」
...母の部屋の隣は私...
野村胡堂 「錢形平次捕物控」
...徹頭徹尾沈黙を守つて盃ばかりをあげてゐる隣席の男が...
牧野信一 「円卓子での話」
...いつも光子のお見舞いで、すまんね」「お父さん、この花、いただいたのよ」「そうかね、それはどうも――」と言ったきり、私の膝の上のダリヤを父はギロギロと睨んでいます「じゃ僕は市場へ行くから、これで――」「お父さん、それから、この本も昇さんがわざわざ買って来てくだすったのよ」昇さんはバツが悪くなってぴょこんと一つおじぎをして竹藪の方へ立ち去って行きます「どうしたの、お父さん?」「うむ、昇君は親切な良い青年だ」父はそう言って、水仙の花を睨んでいるのです4その昇さんは私のところを離れると本堂の裏を墓地の方へ曲りますするといきなり花婆やのブツブツ声が聞こえます「そうでございますよみんなみんな、おしまいになるのですからねナムアミダブツ、ナムアミダブツみんなみんな、大々名からこじきのハジに至るまでこんりんざい、間ちがいなし!地面を打つツチに、よしやはずれがありましてもこればっかりは、はずれようはございませんて!百人が千人、一人のこらずおしまいは必らず、こうなるのですからね!生きている時こそ、なんのなにがしと名前が有ったり金が有ったり慾が有ったりしますけれどごらんなさいまし!こうなるとコケの生えた石ころやらくさりかけた棒ぐらいですわナムアミダブツ、ナムアミダブツちっとばかり生きていると思って慾をかいて、汗をかいてくさい臭いをプンプンさせても無駄なことではございますまいかの」花婆やはカナつんぼのくせにおそろしいおしゃべりでしかもひとりごとの大家ですそこら中につつぬけに響く大声でしゃべりながら墓地と垣根にはさまれた細長い無縁墓地に並んだ無縁ぼとけの墓の間を毎朝の日課の、ほうきで掃きながら昇さんが近くを通るのにも気もつきませんが垣根の向うの花畑の方でかきまわされるコヤシの音はまるきり聞こえなくても鼻はつんぼでないものだからムカムカするほど、かげるからです花婆やは、それはそれは人の良い念仏きちがいの婆やですけど内の父の気持が伝染してコヤシの臭いを憎んでいるのですいえ、正直いちずの人の好い人間の常で当の父よりも伝染した方の婆やの方が憎む気持がいちずですははは、お婆さん今日もやってるなとにが笑いしながら垣根の切れ目からソッと自分の内の農園の方に抜け出るとお父さんは案の通り向うのコヤシだめで怒った顔をしてかきまわしていてズッとこっちの垣根のそばでは昇さんのお母さんの、おばさんが苦労性の青い顔で「昇や、急いでおくれお父さんは、もう花を自転車に積みおえなすったからお前、ボヤボヤしていると叱られるよあああ、ホントに私は毎朝いまごろになるとハラハラして頭が痛くなりますよ」「だってお母さん市へ出かけるのは、もうあと十分近くありますよ」「いえ、お前のことじゃありませんあれごらん、お父さんはあの調子だしそれでお隣りの木魚の音がやっと聞えなくなったと思うと婆やさんが、あの声でああだろうあれではお父さんにもつつ抜けだよ少し遠慮してくれるといいけどねえ」「でもしかたが無いでしょうお婆さんはなんと言ったってオシャベリはよさないしそれに臭いはお婆さんの言う通りですからね」「そらそら、またお前までがそんなことを言う、それはね、どんなに臭くても花造りのコヤシいじりは内の家業ですからね」「しかしタメをかきまわすのは昼すぎだってできるんだ朝っぱらからする必要はないですよお父さんのは隣りの木魚が鳴り出すとたちまち始まるんだまるきりシッペ返しみたいだからな」「おおい、昇! そんなところで何をぐずぐずしているんだあ?」となりの小父さんがタメのところからどなります「そらそら昇、急がないと!」「花は自転車につけたぞう!早く行かないと花が可哀そうだぞ!」「はあーい!」と昇さんは答えてかけ出します5このように内のお父さんと隣りの小父さんの、睨み合いはすこしずつ、すこしずつひどくなりながら毎朝のようにくりかえされるのですそして竹藪の梢が新芽どきとはまたちがった黄色をおびた緑色を濃くしてルリ色のそらにきざみ込まれたままゆれるともなくゆれながら小さい町に音もなく一日一日と冬が過ぎて行きます翌日の朝はその時間になってもいくら待っても昇さんが来ないもしかすると小父さんの代りに農園の用事で東京へ行ったかもしれないしかしそれならそのようにたいがい前に言ってくれるはずなのにこの日はなんにも言ってくれなかったそれでもホノボノとした静かな朝でお父さんの朝のおつとめも始まらない――と私は思っていたのですなんと悲しいことでしょう人間というものがなんでもかでも知っているように思ったりどんなことでも考えることができると思ってるそういう人間のゴーマンさがですのホントはたかが二つの目と耳としか持たずたかがフットボールぐらいの大きさの頭を持っているきりで見ることも聞くことも考えることもお猿さんといくらもちがわないのにねいいえ、人間というものがと言うとまちがいですこの私がです!この私が椅子に寝て、小さな町に音もなく冬の朝のおだやかな光がみちみちて青空にはめこんだ竹の梢を眺めている間にお隣りとの垣根をはさんで内のお父さんと隣りの小父さんとの大喧嘩がはじまっていたのです!そうです大喧嘩です今にも斬り合いがはじまるかと思った――昇さんが私にそう言いました「なに、僕も夜になってから母から聞いて知ったんだ母の話では、昨日の朝は天気は良しまだ木魚の音もきこえないのでノンビリした気持で父と母は垣根のそばの苗木の世話をしていたそうだ垣根のこちらではお花婆さんが無縁墓の大掃除をはじめたらしいホウキで木の葉をはき出したり鎌で草の根っこを掘り出したりしながら例のデンで高っ調子のひとりごとそれも墓石を相手に念仏からお経の文句無縁ぼとけの故事来歴をしゃべりちらしているうちはよかったがやがて、今に臭い臭い匂いがして来るからがまんしにくかろうが、がまんしろのお金をもうけるためにはあんな匂いをさせて業(ごう)を重ねなくてはならないのと遠慮もえしゃくもない高声だから垣根ごしに父も母にもつつぬけに聞えるんだ母は今にも父が怒り出しはしないかとハラハラしながら横目で父を見ると父はお花婆さんの口の悪いには馴れているし腹には毒のないことも知っているがさすがにおもしろくは無いと見えて舌打ちをしてコエだめの方へ行ってコエをかきまわしはじめたと言うんだそらそらそら! ほとけさんたちよ業の匂いがはじまりましたよ鼻がもげぬように用心するこった!お花婆さんが声をはりあげるあんまりだと思って母が垣根の方をヒョイと見ると思いがけない、君のお父さんが真青な額に青筋を立てて垣根の方からヌッと首を出して内の父の方を睨んでいる!びっくりしてよく見るとブルブルふるえる右手に、鎌を握りしめている!その形相が凄いんだよ!」「いいえ、あなた、御院主さんはあんまり天気が良いものですからその朝はおつとめの前に御自分もお墓の掃除の加勢をしようとおっしゃっていましてねわたしの後からお墓へおでましになってわたしから鎌を受取って草の根なんぞを掘り起していなすったんですよそこへあなた、お隣りさんが、人の鼻の先きであの腐った匂いをいきなりはじめたんですからね誰にしたって腹も立ちますよそいで御院主さんは立ちあがって垣根から隣りの畑を見てござらしただけですよ!」「君のお父さんの形相があんまり凄いので内の母は、これは今にも垣根を破り越えて来て親父に斬りかかるのかと思ったそうだ母はあの通り気が小さくて臆病だし君のお父さんと内の父との不仲では永い間、苦にやんで苦にやんで夢の中でうなされるまでになっているのだからトッサのうちにそう思うのも無理がないんだそれでハッとして鍬を持ったまま父の所へ走って行って目顔でそれを知らせると今度は父も血相を変えて垣根の方を睨んでいたがすぐに母から鍬を取って君のお父さんの方へドシドシと歩いて行って垣根の前に立ちはだかって鍬を構えた両手をブルブルふるわせる君のお父さんの顔は真青で僕の父の顔は反対に真赤になってそれが鼻と鼻とを突き合わさんばかりに、なんにも言わないで互いに相手を咒い殺すような目つきをして睨み合って立っていた!ちょうどそこへ僕が帰って来たんだよ僕には何のことやらわからんしただ両方のケンマクだけは物凄いのでびっくりして立って見ていたんだそしたら、さすがにお花婆さんもドギモを抜かれてしゃべるのを胴忘れして見ていたっけそのうちに先ず内の父が僕の姿を見て気はずかしくなったのか鍬をおろして顔をそむけたすると君のお父さんも鎌を引っこめて垣根を離れるそれで、なんのことは無い、犬の喧嘩が立ち消えになったようになんのこともなくおしまいさ!」6そうやって昇さんはふざけたように話すのだけれど内の父と隣りの小父さんの睨み合いがどんなにすさまじいものであったかその目の色を見るとわかります私は聞いているだけで身内がふるえて来たのです「馬鹿なものだよオトナなんて!たかが木魚の音とコエダメの匂いじゃないか相手をゆるす気にさえなれば実になんでもないことなんだそれが、君のお父さんはこの町のお寺さんの中でも立派なお坊さんで有名な人で内の父だって俳句をこさえたりして文句のつけようの無い良い人なのにそいつが、わけもなしに憎み合う!どう言うのだろうと僕が母に言ったらわけは有るんだと母は言うのだそうは言っても、くわしいことは母も知らない母が父の所にお嫁になって来るズットズット以前のことなんだだから君の亡くなったお母さんも、まだお寺に来ない時分もしかすると、君のお父さんもまだこの寺に養子に来る前かも知れないだからもちろん僕も君も生れるズット以前の話だこの寺の先々代の住職の坊さんと僕んちの父の父――つまり僕は知らないが僕の祖父にあたる老人がその頃この町で流行のように行われた耕地整理をキッカケにしてあの竹藪のこっちがわの境界線のことでひどい争いをしたと言うそれもホンの長さ十間ばかりの間、幅が二尺か三尺坪数にして僅か十坪ぐらいを自分の畑だ、おれの地面だと言いつのってどうにも決着がつかぬままに裁判にまで持ち出したけどもともと両方とも先祖から持ち越した土地のことでどちらの物と決められる証拠はなし裁判所でもウヤムヤになってしまったそれ以来、君んとこの先々代と僕の祖父は犬と猿のようになってしまい僕んとこではそのうらみを僕の父に受けつがせ君んとこではそいつを先代に、先代はまた君のお父さんに吹き込んでズーッとつづいているそうだ母が言うには毎年毎年、春と夏はそれほどでもないけれど秋になってくると、おかしなことにお父さんと隣りの院主さんの争いが激しくなって来るそして冬になって寒くなると、表立っていさかいはなさらないけど両方で自分の家でふくれながら先方をそれはそれは憎みなさるんだよいつものことなので少しは馴れっこになったけどどう言うのか戦争がすんでからこっちまた一年一年とひどくなって来てねこの分で行くと、お前も見たようにどんなことがはじまるかと思って私は気苦労でしかたが無い戦争が終って民主主義とやらになって自分自分の慾が強くなって人間みんな喧嘩早くなったのかねえ――母はそう言う、馬鹿な話さ!そいで母と僕とで、それとなくもうそんな争いはやめにしてくださいと言うと父は、自分はやめる気でも相手がやめないから仕方がないと言うんだどうして毎朝毎朝いりもしない木魚をおれをからかうように叩くんだと言うんだ君のお父さんはお父さんで、きっと似たようなことを言うにちがいない自分がやめる気でも相手がやめない毎朝毎朝、こちらが嫌いと知りながらコエの匂いをなぜさせる喧嘩を売る気があるからだ、と言うにきまっているんだよ!木魚の音が先きかコエの匂いが先きかどっちもどっちで相手をとがめてキリが無いのだ馬鹿は死ななきゃ治らないと言うけれどほかのことでは賢い父とこちらの小父さんが二人で向い合うと馬鹿の中でも一番の馬鹿になるそうだ、死ななきゃ治らないものならいっそ二人で斬り合いでもなんでもやって殺し合って死んでしまえばいいんだよしかしね、光ちゃんよ君と僕とはその馬鹿の子供同士だけれど父親たちの争いを受けつぐのだけはごめんだねどんなことがあってもたとえどんなことが起きたとしても君と僕とは仲良くしようぜいいね光ちゃん、げんまんだぜ!」そう言って昇さんはニッコリしながら話すのだけど本気で言っていることは涙ぐんでる目つきでもわかりました私は一人になってから胸が痛くなりボロボロと涙が流れ出してとまりません私はぜんたいどうすればいいの?7「私はぜんたいどうすればいいんです?」と私は父に言ったのですその晩、夕食もすみおつとめもすみました父が毎晩の例になっているように寝る前のいっときを私の枕もとに来て坐ってからです「え? 何のことだえ?」「いえ、昇さんも言うんですほかのことではあんなに賢い、良い人なのに両方が寄ると、どうしてこんなに馬鹿げたことで争うのだろうって」「昇君が? なんのことだ?」「お父さんと隣りの小父さんのことです」「今日のことかね?」「いえ、今日のこととは限らないのホントにホントに、ねえお父さんもう争いはよしてほしいと思うんです私がこんな生意気なことを言ってはすみませんけどぜんたい、どういうわけで、内とお隣りは仲が悪いんですの?」言いながら涙が流れてしかたがなかった父は何か強い言葉で言いかけたが私の顔をヒョイと見ると言葉を切って、急に黙りこみ永いことシンと坐っていましたその末にヒョイと立って本堂の方に行ってやがて何か大福帳のような横長にとじた古い古い帳面を持って来て私の枕元にドサリと置いてまんなかどころを開きました「お前がそこまで言うのならばわたしもハッキリ話してあげよういずれお前もこのことはちゃんと知っていてこの寺を末始終、守ってくれなくてはならぬ人間だよくお聞き、どうして隣りの内と仲たがいをしたかいやいや、と言うよりも、どんなに隣りの内がまちがっているかこれ、ここにちゃんと書いてある!これはこの寺の名僧として名の高かった先々代の住職その方が書き残した過去帳だそれ、ここを読んでごらんひとつ、当山敷地のこと」その筆の文字はウネウネと曲りくねった漢字ばかりで私には一行も読めませんそれを父は昂奮した句調で説明してくれるのですが何やらクドクドとして、一つとしてハッキリとはわからないなんでもその住職の若い時分は隣りとの地境もハッキリしていなかったしことに竹藪の向う側あたりはこの奥の村のお大尽の土地の地つづきで荒れ果てた林であったのをそのお大尽がこの寺に寄進したと言うのですその時にちゃんと測量でもすればよかったのだが昔のことで唯、山林二十なん坪とだけで登記も正確にしたかどうかとにかくそれ以来寺の土地として捨ててあったのを間もなく、その時分のお百姓だった隣りの家で種芋や苗などの囲い穴を作るからその山林の一部分を貸してくれと言うのでさあさあと気持よく貸してやったと言うのですそれ以来、別に地代も取らないが隣りの家から季節季節の野菜などを届けたようだそれから十五六年はそれですんだが耕地整理の測量で、地境をハッキリさせることになった時に隣りの内で、その土地を自分の内のものだと言い出したそれでこちらでは以前そのお大尽の野村さんから寄進された土地だと言うといや、その後、その野村の旦那から金や貸借のカタに受取ったものだと隣りでは言う隣りの内の先代というのが鶏の蹴合いバクチの好きな男でホントのバクチも打ったらしいそこへ野村という大地主がやっぱり闘鶏にこっていたからもしかすると勝負の賭けにあの林をかけて隣りの先代に取られたのかもしれないがねしかし証拠もなんにも無い話だし野村の旦那もとうの昔に亡くなっていて誰に聞こうにも聞く人もないとにかく久しく当山の土地であったものをそんなアヤフヤなことで隣りに渡すわけには行かないとことわるとさあ隣りの先代がジャジャばるわ、ジャジャばるわ嫌がらせやら、おどかしやら、果ては墓地に入りこんで乱暴をするどうでバクチでも打とうと言うあばれ者のことですることがむちゃくちゃだ当山の住職も、最初のうちは、たかが荒れ地の十坪あまりのことだ次第によっては黙って隣りに進呈してもよいと思われたそうだがしかし隣りのやりくちがあんまりアコギが過ぎるのでそんなことならこちらもおとなしく引っ込んではいられないといち時は檀家の者まで騒ぎ出してえらい争いになったそうだその後、裁判沙汰にまでなったがついにウヤムヤになってしまってそれ以来、隣りの内と当山の先代から今に至るまでこの問題は持ち越されて来ているんだよ(……それなら、だけどお父さんお願いですから、お隣りの内で言う通りにしてて下さい現にお父さんだって、たかが十坪ぐらいの土地は惜しくないと言ってるじゃないのお願いですから、きれいに土地をさしあげてお隣りと仲良くして下さい……)と私は言いたかったのだけれどしんけんに喋り立てている父の顔を見ているととてもそうは言えません父としては古い古いゆいしょのあるこの寺の土地をたとえ一坪でも半坪でも自分の代になってから減らしたくない今となっては死んでもゆずりはしないという目の色ですその父がだんだん私には気の毒に見えて来るガンコなようでも、ほかのことではとっても人が好くてお母さんが亡くなってからは私のために奥さんももらわずまだ五十六だのに歯が抜けてしまって、ひどいお爺さんみたいになって私という病気の娘と二人っきりよかわいそうな、かわいそうなお父さん!私にはなんにも言えないのそれで黙って涙を流れるままにしていたらそれを見て父は喋るのをパタリとやめてしまいました……竹藪を冬の夜風の渡るのがサラサラとかすかに、かすかにして来ます父の目にも涙がにじんでいるようですやがて、しゃがれた低い声で「風が出て来たようだな光子、足が寒くはないかえ?」とポツンと言いました返事をすると泣き声が出そうなので私が黙ってかぶりを振ると父も黙って毛布をかけてくれましたその次ぎの日の明けがたです私は三時ごろに一度目がさめてまだ早いのでウトウトしているうちにまたもう一度グッスリと眠りこんだらしくてその物音が耳に入ってもはじめはビックリもなにもしませんでした遠くでパリパリパリッとはぜる音につづいて誰かがキャァと叫んでからなんとかだぁっ! と男の声でどなる声それから表の街道の方から多勢の人が駈けて来る気配がするどうしたんだろうと思って、あたりを見るといつも隣りに寝る花婆やの姿が見えないのです変だと思っていつもフスマを開けた次の部屋に寝る父の寝床の方を見るとこれも大急ぎで起きたと見えてフトンは蹴りのけてあって、父はいないどうしたのだろう?何がはじまったか?私の頭には、昨夜のことがあったせいかいきなり父と隣の小父さんが喧嘩をしてるそのありさまがパッパッと電気のように現われて垣根のところで父は鎌を小父さんは鍬をふりかぶり両方とも顔から首から血だらけにケガをしてケモノのようにたたかっている!いけない! いけない! いけないと起きあがろうとしてもギブスをはめた身はどうしても起きあがれないお父さん! 花婆やっ! お父さんっ!誰か来てっ!もがき苦しんでいる間も表の騒ぎはやみませんどこかでしきりと井戸水をくみあげる音もする!わーっ、そっちだ! あぶないっ!ウォーッ! と男の人たちの声々!バリバリバリッと何かのこわれる音!ああ、どうしよう?お父さんが殺される!早く来てっ! 誰でもいいから早く来てっ!畳に爪を立てるようにもがく!そこへ出しぬけに窓の雨戸をガタン・ゴトン・ガラリと押しのけ障子をサッと開けながら「光ちゃん、光ちゃん、どうした?おれだよ、昇だ、大丈夫だよ!」昇さんは目をギラギラと昂奮した顔をして頭から肩からグッショリと水に濡れてる!しかし直ぐハッハと笑って見せて「光ちゃん、心配しなくてもいいよ一時はどうなるかと思ったけどもう大丈夫だ、ハハおれ、光ちゃんのこと思い出してさどうしてるかと思ったもんで駆けて来たやっぱり小父さんも婆やさんも光ちゃんのこと置いてきぼりで行ったんだな、ハハしかしもう大丈夫だ安心したまい、光ちゃんよ!」「ああ、昇さん、いったいどうしたの?またうちの父とお宅の小父さんが喧嘩したんでしょ?」「え? 喧嘩?ハッハハ馬鹿な! 喧嘩なんかじゃないよ!」「ですから、あたしには何のことやらサッパリわからないんじゃないのよ?さっきからの騒ぎ表のオコシヤさんの角の辺に聞えたけど一体全体どうしたの?」「あ、そうか、そうだな、光ちゃんにはわからないのが当然だそうなんだよ、オコシヤで火事を出したんだよオコシヤの裏の工場でアラレを作るんであんまり火を燃しすぎたと見えてね釜場の裏のハメ板が加熱しちゃって不思議じゃないか、そっちの方は燃えないでそら、僕んちの物置がすぐあの裏に立ってるだろあの物置の草屋根の下から燃えあがったんだその火を一番最初に見つけたのが誰だと思う?こっちの花婆ちゃんさハッハ、耳は遠いが目は早いんだね暗いうちに、はばかりにでも起き出したかお宅の本堂のわきから表を見ると僕んちにカーッと火がついてるんで「火事だあっ!」と呶鳴っていきなりハダシで飛び下りて僕んちの背戸へ来て火事だ火事だっ!叩きおこしてくれたんだよ父も母もびっくりして飛び出して見ると物置の草屋根がパチパチと音を立てて燃えている夢中になって裏の井戸から水を運んでさあ、ぶっかけた、ぶっかけた!オコシヤさんからもみんな出て来て井戸からバケツのリレーなんだ花婆さんもみんなを呶鳴りつけながら水をくむなんとうまく行ったものかたちまち火は消しとめたんだそのころになって、やっと誰かが電話してくれたと見えて町の消防車が駆けつけてくれたけどもう用がなくて、やれやれさ!ところがね光ちゃんよ、おどろくなよそうやって火を消しちゃってまだブスブスとくすぶっている背戸のところでみんながやっとホッとして息を入れながらお互いに顔を見合わせてみたらバケツ・リレーの先頭に立っていたのが、お宅の小父さん光ちゃん、君のお父さんだったんだ!花婆ちゃんもリレーの中にいるし二人とも寝巻のままで水と汗とでグッショリ濡れて変なかっこうさ!僕んちの火事に君んちの小父さんがその姿で死にものぐるいで火を消していたんだよ!内の父も母もそれを見ると急にお礼の言葉も出て来ない目を白黒させてモグモグ、モグモグそうすると君んちの小父さんもバツが悪くなったのかモジモジと真っ赤な顔をして目ばかりグリグリさせているんだ!そのコッケイなありさまと言ったら!内の父と君んちの小父さんが仲の悪いのを知っているオコシヤの小父さんも火事の煙でまっくろにすすけた変な顔をしてジロジロと両方を見くらべているんだねえ光ちゃん、人生は輝きだよ!これが人間のホントの姿さどんなにふだん喧嘩をしているようでもホントのイザとなると助け合うのだ君んとこの小父さんは、やっぱり偉い坊さんだよ僕んちの父だって今までのことを恥じたに違いないこれからは、きっと、君んとこの一大事には理屈ぬきで駆けつけるだろうみんなみんな良い人間なんだよこれをキッカケにして君んとこの小父さんと僕の父とはスッカリ仲良くなるにきまってる!太鼓判をおすよ僕が!よかったね光ちゃんよ!手を出せよ、握手をしようね、人生に栄光あれだよ!」そう言って昇さんは私の手をにぎって振ってくれるのですうれしくてうれしくて私は胸がドキドキしてなんにも言えず昇さんの手を握ったらそれがビッショリ濡れている私は急に昇さんの顔が見えなくなりました9だけど私たち人間の喜びはなんとはかないものでしょう!昇さんの言った人生の栄光はホンのつかの間の幻よ人間はそうかんたんには救われない!それから二三日たった朝父の朝のおつとめの木魚が鳴り出しても隣からコエダメの臭いがして来ないので私はホッとしていたらやがて臭いが流れて来たすると木魚の音が乱れはじめてコエの臭いは鼻がもげそうになってしまいに本堂の方でガタンと言って木魚の音がやんだかと思うとお父さんがドシドシと足音をさせて外に出て行ったカンカンに怒ったお父さんがその足で垣根の所に行って、いきなり首を突き出して隣りの小父さんの方を睨みつけたと言うのです――後で昇さんから聞きましたすると隣りの小父さんも気がついてその日は鍬こそ振りかぶらないけれど内の父の睨む目つきがあまりに憎々しいので小父さんの方でも次第に喰いつきそうな目でにらむそのまま二三十分も両方で突っ立っていた末に昇さんのお母さんがこちらに向っておじぎをしてから、小父さんの袖を引いて家に連れ込んで行ったのでやがてお父さんも本堂にもどって来たと言うのですそれ以来、またまた以前と同じように三日にあげず睨み合いの喧嘩ですああ、ああ、なんと言うことでしょう火事騒ぎであれだけ我を忘れて力を合わせることができたのにもとのもくあみとは、なさけない!お父さんにしてからがそうやって喧嘩をしているのがホントのお父さんか隣りの火事を消しに駆けつけたのがホントのお父さんか?「どちらもホントなんだよ、光ちゃんいいや、僕としては火事を消しに来てくれたのがお宅の小父さんのホントの姿だと思いたいのさしかしね、垣根から内の父と睨み合ってる小父さんの真青な顔を見ていると冗談でできる顔ではないからねそれもウソだとは思えないつまり、どちらもホントなんだよ内の父にしたって同じだ火事のことでは君んちの小父さんに感謝してるんだそして、やっぱり良い人だと言ったようなことを言ってたんだそれがあの調子で君んちの小父さんを睨みつけるんだものどっちもがウソでは無いんだよ」昇さんはそう言うのです「だけど、それでは私にはわからないわ」「そうさ、僕にもわかりはしないよしかしそうなんだから仕方がないさ」「オトナは、すると、みんな気が変なのじゃないかしら?」「そうさ、そうかもしれんなあしかし、やっぱり父も小父さんも気ちがいじゃないしなあ」そう言って昇さんは苦しい苦しい表情になって「もしかすると、アメリカとソビエットが事ごとにいがみ合ったり原爆競争をしているのもデカイことと小さいことの違いこそあってもこれと同じようなことかも知れんなあ」と言いました...
三好十郎 「詩劇 水仙と木魚」
...隣のことはまだ聞いておりません」惟光(これみつ)が冷淡に答えると...
紫式部 與謝野晶子訳 「源氏物語」
......
室生犀星 「星より來れる者」
...隣室の女中の笑聲は絶え間がない...
横光利一 「榛名」
...土豪ながらも四隣に屈せずにいられるのは...
吉川英治 「新書太閤記」
...……しかし久しい間、つい隣国に、こんど生(い)け捕(ど)りになった虎が穴居(けっきょ)しておりましたので、折々、好まぬ相手にもなっておりましたが」「虎と申せば、その虎もこのたびは、よくよく暴虎(ぼうこ)の野望も及ばぬことを知ったか、神妙に、頭を剃(そ)って、詫び入った...
吉川英治 「新書太閤記」
...お隣りにも負けなかった...
吉川英治 「忘れ残りの記」
便利!手書き漢字入力検索