...野路を辿(たど)りて...
石川啄木 「閑天地」
...夕方(ゆふかた)野路(のみち)でも散歩してゐると野良(のら)がへりの農夫達(ひやくしやうだち)は...
薄田泣菫 「茶話」
...車を馬に曳かせて春の野路を走らせてゐたことがあつた...
薄田泣菫 「独楽園」
...翌日は吉野路(よしのじ)を通って...
田中貢太郎 「神仙河野久」
...野路(のみち)を踏みたがへ...
土田耕平 「狐の渡」
...陽炎(かげろう)や名も知らぬ虫の白き飛ぶ更衣(ころもがえ)野路(のじ)の人はつかに白し絶頂の城たのもしき若葉かな鮒鮓(ふなずし)や彦根(ひこね)の城に雲かかる愁ひつつ岡に登れば花いばら甲斐ヶ嶺(かいがね)や穂蓼(ほたで)の上を塩車(しおぐるま)俳句というものを全く知らず...
萩原朔太郎 「郷愁の詩人 与謝蕪村」
...ふるへる めづらしい野路のくさばなおもたく雨にぬれた空氣の中にひろがるひとつの音色なやましき女のなきごゑはそこにもきこえて春はしつとりとふくらんでくるやうだ...
萩原朔太郎 「定本青猫」
...聖人よ日は田舍の野路にまだ高く村村の娘が唱ふ機歌(はたうた)の聲も遠くきこえる...
萩原朔太郎 「定本青猫」
...然らば數多き東國の間を、如何なる徑路を傳はつて、此等新佛教の傳道者が鎌倉に向つたかと云ふに、それは王朝以來の東に向ふ大通りを進んだもので、近江の野路、鏡の宿より美濃の垂井に出で、それより箕浦を經て、尾張の萱津、三河の矢作、豐川と傳はり、橋本、池田より遠州の懸河を通り、駿河の蒲原より木瀬川、酒勾にかゝりて鎌倉に著したのである、即ち今の鐵道線路と大なる隔りはない、日數は日足の長い時と短い時とで一樣には行かぬが、冬の日の短き時には將軍の上り下りなどには、十六七日を要し、春の季や夏の日の長い時なれば十二三日位で達し得たのである、個人の旅行は行列の旅行よりも一層輕便に出來る點から考ふれば、いま少し短期で達し得る樣なものであるが、宿驛に大凡定まりあるが故に甚しき差異はなかつたらしい、それは東關紀行などに照らしても明かである、阿佛尼の旅行には十一月に十四日を費した、最もこれは女の足弱であるから例にならぬかも知れぬ、伊勢路即海道記の著者が取つた道筋は、山坂も險阻であるのみならず日數を費すことも多かつたところから、普通の人は皆美濃路を擇んだものと見える、而して淨土僧禪僧も皆此美濃路に出でたが爲、伊賀伊勢志摩の三國は京都に近き國々でありながら、鎌倉時代を終るまで殆ど新宗教の波動を受けなかつたと云つて差支ないのである...
原勝郎 「鎌倉時代の布教と當時の交通」
...ある短き日の夕彼はいずこともなく旅立って野路を行き...
宮崎湖処子 「空屋」
...熊野路では、鈴木、榎本、宇井の三軒の名家があり、この三軒の者でなければ人間でないとまでいわれたほどである...
柳田国男 「故郷七十年」
...私は小一里もある野路を火燧崎まで出かけた...
横光利一 「夜の靴」
...本野原の野路(のじ)のかぎり...
吉川英治 「私本太平記」
...そしてこの一団は、高野路とは逆に、北の方へ急いで行った...
吉川英治 「私本太平記」
...また武蔵野の野路(のじ)を分けて...
吉川英治 「私本太平記」
...四方田(しほうでん)政孝は、「はや、酉(とり)の刻」と、空を仰いで、発足(はっそく)の心支度を人々へうながしながら、「これよりは、野路山路、およそ京まで五里、おそくもほのぼの明けには、本能寺をひた巻きになし得る...
吉川英治 「新書太閤記」
...そして紀州熊野路から変を聞いて引返した安芸守清盛に...
吉川英治 「随筆 新平家」
...今までよりは嶮しい野路の登りとなつてゐた...
若山牧水 「みなかみ紀行」
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