...薄い※(こけら)板か萱葺(かやぶき)かの最も燃えやすい屋根があるので...
エドワード・シルヴェスター・モース Edward Sylvester Morse 石川欣一訳 「日本その日その日」
...萱の軒近くへ寄りたかつて居る...
伊藤左千夫 「古代之少女」
...萱(かや)や、芒(すすき)や、桔梗(ききょう)や、小萩(こはぎ)や、一面にそれは新芽を並べて、緑を競って生え繁っていた...
江見水蔭 「怪異黒姫おろし」
...敬坊に与ふ)雨の日ねもす藪蚊とたゝかふ(・風の日ねもす萱の穂の散りくる)あぶら蝉やたらに人が恋ひしうて・雨ふる裏田ははだかで草とる・子のことは忘れられない雲の峰黒い蝶白い蝶夏草はしげる七月廿七日まだ降つてゐる...
種田山頭火 「行乞記」
...そして苅萱を頂戴した...
種田山頭火 「草と虫とそして」
...それから稀に葭(よし)を交えた萱(かや)の茂る土堤(どて)の中を流れる...
徳冨健次郎 「みみずのたはこと」
...藁(わら)か萱(かや)でおツ塞(ぷて)えたんでもあんびや」「うむ...
長塚節 「土」
...軟(やはら)かな春(はる)の光(ひかり)は情(なさけ)を含(ふく)んだ目(め)を瞬(またゝ)きしながら彼(かれ)の狹(せま)い小屋(こや)をこまやかに萱(かや)や篠(しの)の隙間(すきま)から覗(のぞ)いて卯平(うへい)の裾(すそ)にも偃(は)つた...
長塚節 「土」
...忽(たちま)ち萱葺(かやぶき)を壞(こは)して...
夏目漱石 「門」
...然らば數多き東國の間を、如何なる徑路を傳はつて、此等新佛教の傳道者が鎌倉に向つたかと云ふに、それは王朝以來の東に向ふ大通りを進んだもので、近江の野路、鏡の宿より美濃の垂井に出で、それより箕浦を經て、尾張の萱津、三河の矢作、豐川と傳はり、橋本、池田より遠州の懸河を通り、駿河の蒲原より木瀬川、酒勾にかゝりて鎌倉に著したのである、即ち今の鐵道線路と大なる隔りはない、日數は日足の長い時と短い時とで一樣には行かぬが、冬の日の短き時には將軍の上り下りなどには、十六七日を要し、春の季や夏の日の長い時なれば十二三日位で達し得たのである、個人の旅行は行列の旅行よりも一層輕便に出來る點から考ふれば、いま少し短期で達し得る樣なものであるが、宿驛に大凡定まりあるが故に甚しき差異はなかつたらしい、それは東關紀行などに照らしても明かである、阿佛尼の旅行には十一月に十四日を費した、最もこれは女の足弱であるから例にならぬかも知れぬ、伊勢路即海道記の著者が取つた道筋は、山坂も險阻であるのみならず日數を費すことも多かつたところから、普通の人は皆美濃路を擇んだものと見える、而して淨土僧禪僧も皆此美濃路に出でたが爲、伊賀伊勢志摩の三國は京都に近き國々でありながら、鎌倉時代を終るまで殆ど新宗教の波動を受けなかつたと云つて差支ないのである...
原勝郎 「鎌倉時代の布教と當時の交通」
...その方らのいただくお武頭の萱野弥五郎は...
本庄陸男 「石狩川」
...うしろの山の萱(かや)をだんだん上流のほうへ青じろく波だてて行きました...
宮沢賢治 「風の又三郎」
...萱堂は近頃如何です...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...竹の柱に萱(かや)の屋根という...
矢崎嵯峨の舎 「初恋」
...屋根の萱をひきはいだものだそうな...
柳田国男 「母の手毬歌」
...筑摩(ちくま)郡へ行くと萱草(わすれぐさ)がトテッコウまたはトテコッコである...
柳田國男 「野草雑記・野鳥雑記」
...「さぞお萱が残念がることでございましょう...
山本周五郎 「菊屋敷」
...萱か何かを折り敷いたまゝうと/\と眠つてしまつた...
若山牧水 「木枯紀行」
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