...彼が粟津の敗死は既に彼が...
芥川龍之介 「木曾義仲論(東京府立第三中学校学友会誌)」
...時実に寿永三年正月二十日、粟津原頭、黄茅蕭条として日色淡きこと夢の如く、疎林遠うして落葉紛々、疲馬頻に嘶いて悲風面をふき、大旗空しく飜つて哀涙袂を沾す...
芥川龍之介 「木曾義仲論(東京府立第三中学校学友会誌)」
...馬首粟津の松原を指し...
芥川龍之介 「木曾義仲論(東京府立第三中学校学友会誌)」
...芭蕉五十二にして粟津の義仲寺に葬(はうむ)る時招(まねか)ざるに来る者三百余人...
京山人百樹刪定 「北越雪譜」
...粟津(あはづ)が原の習々たる青嵐も今日のごとく電車の響のためにその自然の諧音を亂されなかつたであらう...
近松秋江 「湖光島影」
...粟津(あわづ)に来た時は...
徳冨健次郎 「みみずのたはこと」
...粟津(あわづ)の夕立(ゆうだち)の歌などの如きは和歌の尤物(ゆうぶつ)にして俳句にもなり得べき意匠なり...
正岡子規 「俳諧大要」
...誠に『太平記』の秀郷竜宮入りはこの粟津冠者の譚から出たのだ...
南方熊楠 「十二支考」
...「粟津原...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...それから京都東本願寺家(ひがしほんぐわんじけ)の粟津陸奥之助(あはづむつのすけ)と云ふものに...
森鴎外 「大塩平八郎」
...例えば粟津(あわづ)村井(い)の口(くち)の弘法の池は...
柳田國男 「日本の伝説」
...「粟津(あわづ)の戦(いくさ)で...
吉川英治 「新書太閤記」
...多くは、途中で討たれたか、或いは負傷したものだろうが、粟津の辺で、有力な敵の部隊に味方を中断され、それからは四分五裂となって来た結果である...
吉川英治 「新書太閤記」
...義仲が粟津で、戦死した後は、みな運命まちまちである...
吉川英治 「随筆 新平家」
...彼の粟津ヶ原の戦死の状は...
吉川英治 「随筆 新平家」
...粟津の義仲寺は、すぐその隣に、俳人芭蕉が幻住庵を結んだことやら、また、木曾殿と背なか合せの寒さかなという句などで有名である...
吉川英治 「随筆 新平家」
...志賀粟津(しがあわづ)の里も...
吉川英治 「鳴門秘帖」
...粟津ヶ原で、今井兼平とわずか二騎となって、あわれな討死をとげたと聞えた時は、何とはなく、戦捷(せんしょう)の将士も、儚(はかな)いものを思わせられた...
吉川英治 「源頼朝」
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