...◇スキーで出た三人は四時半畠山着...
石川欣一 「山を思う」
...故畠山次郎重忠さまの御末子...
太宰治 「右大臣実朝」
...将軍家はその折すこしく御酒気だつたのでございますが、宗政さまがお首をひつさげて御参着の事をちらと小耳にはさんで御眉をひそめられ、殺せとは誰の言ひつけ、畠山重忠は、このたびの和田左衛門尉とひとしく、もともと罪なくして誅せられたる幕府の忠臣、その末子がいささか恨みを含んで陰謀をたくらんだとて、何事か有らんや、よつて先づ其身を生虜らしめ、重慶より親しく事情を聴取いたし、しかるのちに沙汰あるべきを、いきなり殺して首をひつさげて帰るとは、なんたる粗忽者、神仏も怒り給はん、出仕をさしとめるやう、と案外の御気色で仲兼さまに仰せつけに相成り、仲兼さまはそのお叱りのお言葉をそのまま宗政さまにお伝へ申しましたところが、宗政さまは、きりりと眦を決し、おそれながら、たはけたお言葉、かの法師を生虜り召連れまゐるは最も易き事なりしかど、すでに叛逆の証拠歴然、もしこの者を生虜つて鎌倉に連れ帰らば、もろもろの女房、比丘尼なんど高尚の憂ひ顔にて御宥免を願ひ出づるは必定、将軍家に於いても、ただちにれいの御慈悲とやらのお心を用ゐてかかる女性の出しやばりの歎願を御聴許なさるは、もはや疑ひも無きところ、かくては謀逆もさしたる重き犯罪にあらず、ひいては幕府の前途も危ふからんかと推量仕つて、かくの如くその場を去らしめず天誅を加へてまゐりましたのに、お叱りとは、なあんだ、こんなふうでは今後、身命を捨て忠節を尽す者が幕府にひとりもゐなくなります、ばかばかしいにも程がある、そもそも当将軍家は、故右大将家の質素を旨とし武備を重んじ、勇士を愛し給ひし御気風には似もやらず、やれお花見、やれお月見、女房どもにとりまかれ、あさはかのお世辞に酔ひしれて和歌が大の御自慢とはまた笑止の沙汰、没収の地は勲功の族に当てられず、多く以て美人に賜はる、たとへば、榛谷四郎重朝の遺跡を五条の局にたまはり、中山四郎重政の跡を以て、下総の局にたまはるとは、恥づかし、恥づかし、いまにみるみる武芸は廃れ、異形の風流武者のみ氾濫し、真の勇士は全く影をひそめる事必至なり、御気色を蒙り、出仕をさしとめられて、かへつて心がせいせい致しました、と日頃の鬱憤をここぞと口汚く吐きちらし、肩をゆすつて御退出なさいましたさうで、お部屋が離れてゐるとはいへ、たいへんな蛮声でございましたから、将軍家のお耳元にも響かぬ筈はなく、お傍の私たちはひとしく座にゐたたまらぬ思ひではらはら致して居りましたが、さすがに将軍家の御度量は非凡でございました...
太宰治 「右大臣実朝」
...この六郎は畠山次郎重忠(しげただ)の子六郎重保(しげやす)で...
田中貢太郎 「頼朝の最後」
...幕いよいよ明かんとする時畠山古瓶以前は髯むぢやの男なりしを綺麗に剃りて羽織袴(はおりはかま)の様子よく幕外に出でうやうやしく伊井一座この度鴎外先生の新作狂言上場(じょうじょう)の許(ゆるし)を得たる光栄を述べき...
永井荷風 「書かでもの記」
...錢形の親分は畠山重忠役らしい...
野村胡堂 「錢形平次捕物控」
......
三好十郎 「捨吉」
...ワキの畠山重忠が前記梅津昌吉氏であった...
夢野久作 「梅津只圓翁伝」
...畠山大伍らの各隊は...
吉川英治 「私本太平記」
...まもなく、石堂十馬、畠山五郎、仁木於義丸(おぎまる)、そのほか、尊氏の他行にはつねに随参している若党輩(わかとうばら)が、ひとりの男をとりかこんで坂下からもどって来た...
吉川英治 「私本太平記」
...細川顕氏(あきうじ)、上杉重能(しげよし)、畠山国清などで、それに少弐頼尚(しょうによりひさ)も、陣のさきに立っていた...
吉川英治 「私本太平記」
...また上杉や畠山が...
吉川英治 「私本太平記」
...さらには越後の流刑先で横死(おうし)した畠山直宗や上杉重能の家来どももいることです...
吉川英治 「私本太平記」
...今川の入道心省、畠山阿波守兄弟、武田陸奥守、二階堂山城ノ判官、千葉ノ介など七、八千をこえていず、とうてい、勝算があるものとは見えなかった...
吉川英治 「私本太平記」
...使いに立った畠山や今川もいう毎々なことばであった...
吉川英治 「私本太平記」
...三浦殿を悩ました秩父の畠山重忠が...
吉川英治 「源頼朝」
...畠山庄司重忠は、自分の功名は捨てて義経のそばへ、ひたと駒をよせ、義経の司令と共に、声を援けて、渡河中の全軍へ、始終、水馬戦の注意をさけんでいた...
吉川英治 「源頼朝」
...山深くなるばかり」畠山重忠は...
吉川英治 「源頼朝」
便利!手書き漢字入力検索