...独眼竜は戦国時代の武将・真田幸村の異名です...
...あの独眼竜は相手を翻弄していた...
...独眼竜伝説は地元の人々に語り継がれている...
...独眼竜の魅力に引き込まれてしまった...
...映画「独眼竜政宗」は大ヒットした...
...それが楠公の像の頃であったが、それ以後、後藤先生は益々颯爽(さっそう)として、独眼竜と称した...
高村光太郎 「回想録」
...見ずには置けぬ」そこで独眼竜は馬を駆(か)って...
中里介山 「大菩薩峠」
...唐太宗親筆の序――王右軍の筆蹟――独眼竜の一つの目が...
中里介山 「大菩薩峠」
...東北の独眼竜伊達政宗を説かなければならないのですが...
中里介山 「大菩薩峠」
...昔、伊達政宗が、支倉(はせくら)六右衛門をローマへ使者として遣(つか)わす時分に、船出の港として選んだのがこの月ノ浦だ」「なるほど、伊達政宗がローマへ使を遣(や)った時の船が、ここから出たのですか」「そうです、それが最初から我々の頭にあるものですから、石巻とは言い条、寧(むし)ろここを我々の投錨地(とうびょうち)――次第によっては当分、第二の根拠地と想像して、予定してやって来たのですが、来て見ると案外でした」「どう案外でした」「どうも、政宗があれだけの船おろしをしたのは、この浦ではないようです」「どうしてそれがわかります」「あの時は――政宗が拵(こしら)えた船は、幕府からも船大工十人の補助を受けてやった仕事なのですが、長さが十八間、幅が五間半、高さが十四尺、乗組は南蛮人を合わせて百八十人という多勢ですが、どうもこの地へ来て見ると、ここでそれだけの造船がやれそうには思われないのだ」「なるほど」「伊達政宗という人は、船を造ることにはかなり興味を持っていた男だが、その事業や、野心の程度などについては、多くの疑問が残されている、月ノ浦の地形を見て、いよいよその問題が大きくなってきたところだ」「そうだろう、独眼竜、あいつ、なかなか食えない奴だからな」と田山白雲が、伊達政宗を友達扱いででもあるように言い放ちますと、駒井甚三郎が、「そうです、政宗はなかなか食えない男です、邪法国(くに)を迷わすなんぞと、詩にまでうたっていながら、その事実、宣教師を保護し、切支丹(きりしたん)を信じていたのですな...
中里介山 「大菩薩峠」
...独眼竜といわれた偉人は少くありませんが...
柳田國男 「日本の伝説」
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