...江戸時代において、甲斐源氏の一族、武田氏の一族、そして平姓の武士たちが先祖を慕い、武州小手指村(現在の埼玉県新座市)から、岩松城(現在のさいたま市北区岩槻)に至る山間部を移住したという「民族大移動」があった...
...父の弟子の中に武州粕壁から来た野房儀平という男があって...
高村光太郎 「回想録」
...廿六日、乙未、天霽、相州、武州、大官令等参会し、御所新造の事群議に及ぶ、是去る五月合戦の時、焼失するに依りてなり...
太宰治 「右大臣実朝」
...「見し夜の夢」の作者妙覚尼(みょうかくに)は武州公の容貌(ようぼう)...
谷崎潤一郎 「武州公秘話」
...武州公自身が懺悔(ざんげ)している「道阿弥話」の記事と...
谷崎潤一郎 「武州公秘話」
...武州公であったろうことは略(ほゞ)想像がつくのである...
谷崎潤一郎 「武州公秘話」
...多聞山の城主武州公の許へ公然と加勢を求めて来たのである...
谷崎潤一郎 「武州公秘話」
...「武州相州の界(さかひ)...
中里介山 「大菩薩峠」
...武州の近藤勇、薩摩の中村半次郎(桐野利秋)――それと肥後の川上彦斎...
中里介山 「大菩薩峠」
...ただ、この際、主膳がこれからひとつ、子供を遊び相手にしてやろうとの心を起したのは、布袋子(ほていし)が、子供に取巻かれたというのが羨(うらや)ましいのでもなく、越後の良寛和尚が、子供に愛せられたのを模倣してみたいというのでもなく、まして、かのお松と、与八とが、武州沢井の奥で、子供らのために、友となっているそれとは、心に於ても、形に於ても、天淵(てんえん)の差あることは勿論(もちろん)なのであります...
中里介山 「大菩薩峠」
...それから武州御岳との間に...
中里介山 「大菩薩峠」
...彼は武州府中在の土民で...
中里介山 「大菩薩峠」
...武州相州ノ百姓ヲ呼ビ出シテ...
中里介山 「大菩薩峠」
...武州刎村(はねむら)というところの百姓弥之助と申しますが...
中里介山 「大菩薩峠」
...同年五月三日の條に御方兵由利中八郎維久、於若宮大路射三浦之輩、其箭註姓名、古郡左衞門尉保忠郎從兩三輩中此箭、保忠大瞋兮、取件箭返之處、立匠作之鎧草摺之間、維久令與義盛、奉射御方大將軍之由、披露云々同五月五日の條に去三日由利中八郎維久、奉射匠作事、造意之企也、已同義盛、可彼糺明之由、有其沙汰、被召件箭於御所之處、矢注分明也、更難遁其咎之旨、有御氣色、而維久陳申云、候御方防凶徒事、武州令見知給、被尋決之後、可有罪科左右歟云々、仍召武州、武州被申云、維久於若宮大路、對保忠發箭及度々、斯時凶徒等頗引返、推量之所覃、阿黨射返彼箭歟云々、然而猶以不宥之云々五月三日の條と同五日の條とは若吾妻鏡が一人の手に成りたる日記なりとせば、明に其間に矛盾の存することを見るべく、此矛盾を解釋せんには三日の條の記事を以て追記なりとせざるを得ず、然らざれば三日に於て既に明白なる事實が、五日に於て疑義となること怪むべきことなり、且三日の記事は既に其中に於て矛盾を含めり、慥に御方に候せる維久が、故に矢を義盛に送りて泰時を射さしめたりといふが如きは、事實上あり得べからざることにして、此矛盾は益三日の記事の麁忽に追記せられたることを證する者なり...
原勝郎 「吾妻鏡の性質及其史料としての價値」
...武州小金井に繩張を持つ安亀事安井亀二郎が取ってつけたような騒ぎを起し...
久生十蘭 「魔都」
...一見していかにも寥々たる武州大塚村の形相がうかゞはれ...
正岡容 「巣鴨菊」
...一方故郷の武州赤塚村へ立ち戻った正介は...
正岡容 「我が圓朝研究」
...日本にも永正元年武州に鼠多く出て...
南方熊楠 「十二支考」
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