...昔から日本で名君と言はれた天皇方は延喜、天暦、寛弘、延久即ち醍醐天皇、村上天皇、一條天皇、後三條天皇といふやうなお方であつて、同時に此のお方々はいづれも宏才博覽に諸道をもしらせられたといふことを言つて居るが、後三條以後には後宇多天皇ほどの御才は聞えさせ給はずと申して居ります、そして後宇多天皇の學問並に佛教の造詣の深く入らせられた事に就て委しく述べて居ります...
内藤湖南 「日本文化の獨立」
...村上天皇の頃になると全く失われたようである...
橋本進吉 「国語音韻の変遷」
...村上天皇の頃には完全に混同してしまっております...
橋本進吉 「古代国語の音韻に就いて」
...すなわち南朝の、後村上天皇とは、このきみだった...
吉川英治 「私本太平記」
...後村上天皇もまた...
吉川英治 「私本太平記」
...両朝合一で賀名生(あのう)の後村上天皇が還幸(かんこう)となれば...
吉川英治 「私本太平記」
...後村上天皇は賀名生(あのう)の行宮(あんぐう)を立たれ...
吉川英治 「私本太平記」
...後村上天皇は、賀名生(あのう)を発輦(はつれん)されたとも、まだともいわれ、いずれにせよその親衛軍を前駆に、近く都門へ還幸あるにはちがいない――当然、足利義詮は、尊氏の心をうけて、都の留守にあたっているが、降参恭順の臣である...
吉川英治 「私本太平記」
...賀名生(あのう)の行宮(あんぐう)を発輦(はつれん)していた後村上天皇は...
吉川英治 「私本太平記」
...後村上天皇は、北畠顕能(あきよし)、名和長重(長年の子)らにまもられて、からくも河内野へ逃げ走られた...
吉川英治 「私本太平記」
...後村上天皇は、馴れぬ馬で、やっと、敗走兵の中に駈けまじりながら、朝がた、奈良まで来たが、「みかどは?」「天皇は」と、ここで急に同勢がかえりみ合っても、どれが後村上やら分らず、やがてのこと、おん直垂(ひたたれ)のまま、鞍に錦で包んだ筥(はこ)をお置きになっているのが、天皇だとわかって、初めて警固の隊を組むような有様だった...
吉川英治 「私本太平記」
...また、それいぜんに、後村上天皇は、賀名生(あのう)の行宮を、河内の金剛寺へ遷(うつ)されていた...
吉川英治 「私本太平記」
...正儀の伝えに依れば、後村上天皇には、正行が、よそながら今生の御いとま乞いにと伺候した心のうちを、疾(と)くお察しになって、冬風のふせぎも粗末な仮御所の階(きざはし)の下、間近まで、正行を召されて、御簾(ぎょれん)をさえかかげられ、「朕(ちん)は汝を股肱(ここう)とたのむぞ」と、親しく仰せられたという...
吉川英治 「日本名婦伝」
...元弘、建武の頃から正平年間にわたる長い乱世にかけてこの御山(みやま)が、時には、大塔宮護良(だいとうのみやもりなが)親王の戦勝祈願をこめらるる大炉(たいろ)となり帷幕(いばく)の密議所となり、また時には、楠正成たちの忠誠が守るところとなるかと思えば、京六波羅(ろくはら)の賊軍が、大挙して攻め襲(よ)せる目標となったり、下って足利氏(あしかがし)が世を暴奪(ぼうだつ)なし終った乱麻(らんま)の時代となっては偲(しの)び上げるも畏れ多いことながら、後村上天皇は、男山御脱出以来、軍馬の間を彼方此方(あちこち)と御輦(みくるま)の漂泊(さすらい)を経られて、やがてこの金剛寺を行宮(あんぐう)に年久しく、山僧の生活も同様な御不自由をしのんでお在(い)で遊ばした...
吉川英治 「宮本武蔵」
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