...治承元年山門の争乱に乗じ...
芥川龍之介 「木曾義仲論(東京府立第三中学校学友会誌)」
...また承元四年の十一月二十四日の事でございましたが...
太宰治 「右大臣実朝」
...去る承元二年已来...
太宰治 「右大臣実朝」
...御幼少の頃より和歌に親しみ、古写本の断片などに依り少しづつ本格のお手習ひをはじめ、十四歳の頃にはすでにお傍の人たちを瞠若たらしむるほどの秀歌をおよみになつて、さらにそのとし、内藤兵衛尉朝親さまが京都よりの御土産として新古今和歌集一巻を献上なされ、しかもその和歌集には御父君、右大将家のお歌も撰載せられて居りましたので、御感激もひとしほ強く、その和歌集に就いていよいよ歌道にはげみ、御ところの風流人を召集めて和歌の御会などもおひらきになり、たまたま御気色を蒙つた御家人が、和歌一首たてまつつたところ、たちまち御宥免になつたとかいふ事さへあつたほどで、承元二年、十七歳の御時に清綱さまから相伝の古今和歌集の献上があり、末代までの重宝とおよろこびになつたのは前にも申し上げました事で、その翌年には御夢想に依つて住吉社に二十首の御詠歌を奉り、事のついでに、京極中将定家朝臣に御初学以来のお歌の中から三十首を選んで送り、ほどなく、定家卿からその三十首のお歌にそれぞれお点をつけて返進してまゐりまして、それ以来、定家卿について更に熱心に歌道にはげまれ、「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬまでも高き姿を願ひて、」などといふ定家卿のお教へに従ひ、翌々年の七月には、時ニヨリ過グレバ民ノ歎キナリ八大竜王雨止メ給ヘといふ堂々たるお歌をお作りになられ、もはや押しも押されもせぬ古今独歩の大歌人たる御品格をお示しになり、さうして、その十月には鴨の長明入道さまにお逢ひになり、稲妻の胸にひらめくが如く一瞬にして和歌の奥儀を感得なされ、それ以後のお歌はことごとく珠玉ならざるはなく、いまは、はや御年二十二歳、御自身も、このとしをもつて、わが歌の絶頂とお見極めをつけられた御様子でございまして、御詠歌の数もおびただしく、深夜、子の剋、丑の剋まで御寝なさらずにお歌を御労作なさつて居られる事も珍らしくはなく、そのやうな折にはお顔の色も蒼ざめ、おからだも透きとほるやうなこの世のお方でない不思議の精霊を拝する思ひが致しまして、精霊が精霊を呼ぶとでも申すのでございませうか、御苦吟の将軍家のお目の前に、寒々した女がすつと夢のやうに立つて、私もそれは見ました、まざまざと見ました、あなやの声を発するいとまもなく、矢のやうに飛んで消え去りましたが、天稟の歌人の御苦吟の折には、このやうな不思議も敢へて異とするに足らぬのではなからうかと、身の毛もよだつ思ひに震へながらも私はそのやうに考へ直した事でございました...
太宰治 「右大臣実朝」
...あの承元二年に清綱さまから相伝の古今和歌集を献上せられた時よりも更に深くおよろこびの御様子に拝され...
太宰治 「右大臣実朝」
...承元々年正月五日従四上...
太宰治 「右大臣実朝」
...承元(じょうげん)二年戊辰(つちのえたつ)...
太宰治 「鉄面皮」
...最後に承元三年六月十九日沙門源空と署名している...
中里介山 「法然行伝」
...承元元年十二月八日勅免の宣旨が下った...
中里介山 「法然行伝」
...承元元年十二月八日符到奉行左大史小槻宿禰権右中弁藤原朝臣勅免があったとはいえ...
中里介山 「法然行伝」
...この物語の本筋の事件の起きた治承元年になり...
久生十蘭 「無月物語」
...承元元年、彼の三十五歳のとき、法然ならびにその門下は流罪の難にあった...
三木清 「親鸞」
...承元の法難には親鸞も連累した...
三木清 「親鸞」
...承元の元年、二月二十八日...
吉川英治 「親鸞」
...それはいつ?」「去年(こぞ)の――承元四年の四月五日のことでございます...
吉川英治 「親鸞」
...治承元年の正月へ...
吉川英治 「随筆 新平家」
...平家を中心とする同じ“治承元年”というころの都の世態は...
吉川英治 「随筆 新平家」
...(二七・五・四)春行くやまごつく旅の五六日*治承元年あたりは...
吉川英治 「随筆 新平家」
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