...日本の大国難である弘安の役の終った翌年に亡くなられました...
石原莞爾 「最終戦争論」
...弘安の年號の文字纔に見ゆる古き墓碑もあり...
大町桂月 「白河の關」
...同じ筆法で行けば弘安四年六月三十日から七月一日へかけて玄界灘を通過した低気圧は我邦(わがくに)の存亡に多大の影響があったのである...
寺田寅彦 「戦争と気象学」
...弘安四年に日本に襲来した蒙古(もうこ)の軍船が折からの颱風のために覆没(ふくぼつ)してそのために国難を免れたのはあまりに有名な話である...
寺田寅彦 「颱風雑俎」
......
福澤諭吉 「福翁自伝」
...その船長の松木弘安(まつきこうあん)(後に寺嶋陶蔵(てらじまとうぞう)又後に宗則(むねのり))...
福澤諭吉 「福翁自伝」
...斎は又蘭軒が蓮花寺弘安年間の古鐘を見なかつたのを憾(うらみ)としてゐる...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...その百五十三わたくしは蘭軒が此年文政六年に阿部正精(まさきよ)に代つて弘安本孝経に跋した事を言つた...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...そして所謂弘安本の古文孝経孔伝であることに及んだ...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...年代順に列記すれば、建保七年、弘安二年、正安四年(乾元元年)、元亨元年、元徳二年、文明五年、慶長五年の諸鈔本である...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...『地名辞書』の説では弘安八年の図田帳(ずでんちょう)に...
柳田國男 「地名の研究」
...常陸久慈(くじ)郡の阿久津は弘安の大田文(おおたぶみ)に見え...
柳田國男 「地名の研究」
...「大さんは弘安の役における北条時宗と祖元との話を知っているだろう」「宋僧の祖元かね」「弘安四年に元軍が来寇(らいこう)したとき時宗は祖元をたずねて『大事到来せり如何(いかが)すべき』と問うた...
山本周五郎 「新潮記」
...「弘安四年に、元寇(げんこう)の役があった、そのとき執権時宗は、某(なにがし)とかいう禅僧のところへいって、大事到来せり、いかんか向前(こうぜん)せんと訊いた、禅僧某はかねて時宗の師家だったが、問いに対して、迷惑すべからず、と答えた、時宗は大喝(だいかつ)し、元軍討滅の決意をかためたという」これはおかしい、と甲斐は云った...
山本周五郎 「樅ノ木は残った」
...なにがしとかいう高家(こうけ)から借りられた弘安礼節という古写本で...
山本周五郎 「樅ノ木は残った」
...玄四郎は写し終った弘安礼節を持って...
山本周五郎 「樅ノ木は残った」
...ただ、幼時のうろ覚えには、その足利式部大夫(しきぶのたゆう)家時は、弘安十年、まだ三十五の若さを、この御霊屋で、腹を切って死んだとか...
吉川英治 「私本太平記」
...弘安十年二月二十一日ゆゑあればこそ...
吉川英治 「私本太平記」
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むくれる いても立ってもいられない 面がまえ
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