...さてその二代将軍頼家公すなはち後に出家して二品禅室さまには、一幡、善哉、千寿などのお子がございましたが、御長子の一幡さまは、例の比企氏の乱の折に比企氏の御一族と共に北条氏に殺され、御三男の千寿さまも、のちに信濃国の住人泉小次郎親平などの叛謀に巻き込まれ、まもなく出家し栄実と号して京都に居られましたが、またもや謀反の噂を立てられ、京の御宿舎に於いて自殺をなさいまして、御次男の善哉さまはそのやうな御難儀にも遭はず、すくすく御成長なさつてゐたといふわけになるのでございますが、この善哉さまは、元久二年十二月、六歳の暮に、御祖母の尼御台さまの御指図に依り鶴岳八幡宮寺別当尊暁さまの御門弟として僧院におはひりになり、翌る建永元年に、やはり尼御台さまのお計ひに依り、将軍家の御猶子にならせられたのださうでございます...
太宰治 「右大臣実朝」
...建永元年二月二十二日叙従四下...
太宰治 「右大臣実朝」
...建永元年八月、蓮生は、「わしは明年の二月八日往生する...
中里介山 「法然行伝」
...建永元年十二月九日のこと後鳥羽院が熊野へ行幸のことがあった...
中里介山 「法然行伝」
...建永二年二月二十八日符到奉行右大史中原朝臣左少弁藤原朝臣追捕(ついぶ)の検非違使(けびいし)は...
中里介山 「法然行伝」
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