...建久三壬子の年勅使(ちよくし)皈洛(きらく)の時...
京山人百樹刪定 「北越雪譜」
...廿八日、乙巳、相模国相漠河の橋数ヶ間朽ち損ず、修理を加へらる可きの由、義村之を申す、相州、広元朝臣、善信の如き群議有り、去る建久九年、重成法師之を新造して供養を遂ぐるの日、結縁の為に、故将軍家渡御、還路に及びて御落馬有り、幾程を経ずして薨じ給ひ畢んぬ、重成法師又殃に逢ふ、旁吉事に非ず、今更強ち再興有らずと雖も、何事の有らんやの趣、一同するの旨、御前に申すの処、仰せて云ふ、故将軍の薨去は、武家の権柄を執ること二十年、官位を極めしめ給ふ後の御事なり、重成法師は、己の不義に依りて、天譴を蒙るか、全く橋建立の過に非ず、此上は一切不吉と称す可からず、彼橋有ること、二所御参詣の要路として、民庶往反の煩無し、其利一に非ず、顛倒せざる以前に、早く修復を加ふ可きの旨、仰出さると云々...
太宰治 「右大臣実朝」
...この和卿といふお方は、その当時こそひどく落ちぶれて居られたやうでございましたが、以前はなかなか有名な唐人だつたさうで、人の話に依りますと、その建保四年から数へて約二十年むかし、建久六年三月、故右大将家再度の御上洛の折、東大寺の大仏殿に御参りになつて、たまたま宋朝の来客、陳和卿の噂をお聞きになり、その陳和卿が総指揮をして鋳造したといふ盧舎那仏の修飾のさまを拝するに、まことに噂にたがはぬ天晴れの名工、ただの人間ではない、と御感なされて、重源上人をお使として、和卿をお招きになりましたところが、和卿は失礼にも、将軍多く人命を断ち、罪業深重なり、謁に及ばざる由、御返答申し上げ、故右大将家はお使の上人からその無礼の返辞を聞き、お怒りになるどころか、いよいよ和卿に御傾倒なされた御様子で、奥州征伐の時に著け給ひし所の甲冑、ならびに鞍馬三疋金銀など、おびただしくお贈りになられ、けれども和卿は一向にありがたがらず、甲冑は熔かして伽藍造営の釘と為し、その他のものは、領納する能はず、と申して悉く御返却に及んだとか、これほど驕慢の陳和卿も寄る年波には勝てず、鋳造の腕もおとろへ、またことさらに孤高を衒ひ、ときどき突飛な振舞ひをして凡庸の人間に非ざる所以を誇示したがる傾きもあり、またそのやうな人にありがちな嫉妬の情にも富んでゐた様子で、次第に周囲の者から疎んぜられ、つひには東大寺から追放されて失意の流浪生活にはひり、建保四年六月、まるで乞食のやうな姿で鎌倉へあらはれ、往年の気概はどこへやら、あの罪業深重とやらの故右大将家の御実子を御仏の再誕と称してその御温顔をひとめ拝したいと歎願に及んだとか、私どもには、名人気取りの職人が、威勢のいい時には客の註文も鼻であしらひ、それもまた商策の狡猾な一手段で、故右大将家のやうにいよいよ傾倒なさるお方もあり、註文がぱつたり無くなると、もともと身振りだけの潔癖ゆゑ、たちまち愚痴つぽくなつて客に泣きつくといふ事はままある例でございますし、その時の陳和卿の言行も、すべて見え透いた卑屈な商策としか思はれませんでしたけれども、将軍家にとつては、何せ、御仏の再誕といふ一事のために、おのづから、かの厩戸の皇子さまの御事などもお思ひ合せになられるらしく、どこやら気になる御様子で、十五日に御ところへお召しになりましたが、陳和卿もなかなかのお人で、将軍家のお顔をひとめ仰ぎ見て、大声挙げて泣いておしまひになりました...
太宰治 「右大臣実朝」
...法皇が崩御遊ばされた後御菩提の為めに建久三年秋の頃...
中里介山 「法然行伝」
...時は建久三年十一月十五日であったが...
中里介山 「法然行伝」
...二十八武蔵国の御家人、津戸三郎為守(つのとのさぶろうためもり)は、生年十八歳の時、治承四年八月に頼朝石橋山の合戦の時、武蔵の国から走(は)せまいり、安房(あわ)の国へも従い、その後所々の合戦に名を挙げたが、建久六年二月、東大寺供養の為に頼朝が上洛の時、為守は、三十三歳でお伴をして行ったが、三月四日に京都に着き、その月の二十一日に法然の庵堂へ参って、合戦度々の罪を懺悔(さんげ)し、念仏往生の道を聴いてから法然の信者となり、本国に下ってからも念仏の行、怠りなかったが、或人が、「熊谷入道や、津戸三郎は無学無智の坂東の荒武者で、他の学問や修行を教えたって仕方がないと見たから、そこで法然様が念仏ばかりでいいと仰言(おっしゃ)ったのだ...
中里介山 「法然行伝」
...建久二年の頃法然を請(しょう)じて大仏殿のまだ半作であった軒の下で観経(かんぎょう)の曼陀羅(まんだら)...
中里介山 「法然行伝」
...建久三年の頃叡山の根本中堂の安居(あんご)の結願に...
中里介山 「法然行伝」
...建久六年十三歳の時...
中里介山 「法然行伝」
...建久八年法然六十五...
中里介山 「法然行伝」
...実に建久元年なり...
牧野富太郎 「植物一日一題」
...『東鑑(あずまかがみ)』建久四年六月十八日故曾我十郎が妾(大磯の虎除髪せずといえども黒衣袈裟(けさ)を着す)箱根山の別当行実坊において仏事を修し(中略)すなわち今日出家を遂げ信濃国善光寺へ赴く時に年十九とある...
南方熊楠 「十二支考」
...この暦は建久年間(西暦一一九〇―一一九八)のものだったが...
武者金吉 「地震なまず」
...左沢氏は毛利の一族で建久年中にこの地に封ぜられた家というから...
柳田國男 「地名の研究」
...降(くだ)って『続左丞抄(ぞくさじょうしょう)』に採録した建久六年の若狭の国富保(くにとみのほ)の文書などには...
柳田國男 「地名の研究」
...建久八年の橘兼仲のごとく...
柳田国男 「山の人生」
...建久元年に行われた源頼朝の大仏供養を模(も)している...
吉川英治 「私本太平記」
...建久二年の年は、範宴(はんえん)少納言がこの東塔(とうとう)の無動寺(むどうじ)に入ってから、ちょうど九年目に当たる...
吉川英治 「親鸞」
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