...建久三壬子の年勅使(ちよくし)皈洛(きらく)の時...
京山人百樹刪定 「北越雪譜」
...建久(けんきゅう)九年十二月...
田中貢太郎 「頼朝の最後」
...建久九年正月七日別時念仏(べちじねんぶつ)の間には特に様々の異相奇瑞が現われたということが...
中里介山 「法然行伝」
...建久三年正月五日から法皇が御悩みあって...
中里介山 「法然行伝」
...建久八年(六十五歳)の時法然が少しく病気に罹(かか)った...
中里介山 「法然行伝」
...二十八武蔵国の御家人、津戸三郎為守(つのとのさぶろうためもり)は、生年十八歳の時、治承四年八月に頼朝石橋山の合戦の時、武蔵の国から走(は)せまいり、安房(あわ)の国へも従い、その後所々の合戦に名を挙げたが、建久六年二月、東大寺供養の為に頼朝が上洛の時、為守は、三十三歳でお伴をして行ったが、三月四日に京都に着き、その月の二十一日に法然の庵堂へ参って、合戦度々の罪を懺悔(さんげ)し、念仏往生の道を聴いてから法然の信者となり、本国に下ってからも念仏の行、怠りなかったが、或人が、「熊谷入道や、津戸三郎は無学無智の坂東の荒武者で、他の学問や修行を教えたって仕方がないと見たから、そこで法然様が念仏ばかりでいいと仰言(おっしゃ)ったのだ...
中里介山 「法然行伝」
...建久二年の頃法然を請(しょう)じて大仏殿のまだ半作であった軒の下で観経(かんぎょう)の曼陀羅(まんだら)...
中里介山 「法然行伝」
...建久六年十三歳の時...
中里介山 「法然行伝」
...建久六年三月二十日造営の功を了(お)え...
中里介山 「法然行伝」
...建久八年法然六十五...
中里介山 「法然行伝」
...建久九年の春には法然から撰択集を授けられ...
中里介山 「法然行伝」
...建久四癸丑(みずのとうし)年に十九なら安元元乙未(きのとひつじ)年すなわち未歳生まれで寅歳でない...
南方熊楠 「十二支考」
...この暦は建久年間(西暦一一九〇―一一九八)のものだったが...
武者金吉 「地震なまず」
...左沢氏は毛利の一族で建久年中にこの地に封ぜられた家というから...
柳田國男 「地名の研究」
...建久八年の橘兼仲のごとく...
柳田国男 「山の人生」
...ところが、建久の年、熊谷直実(くまがいなおざね)と久下直光(くげなおみつ)とが、領地ざかいの争いで、対決したさい、裁判の不当に怒ッた直実が吠え猛って、吟味の東ノ廂(ひさし)を震駭(しんがい)させた...
吉川英治 「私本太平記」
...建久元年に行われた源頼朝の大仏供養を模(も)している...
吉川英治 「私本太平記」
...世は木枯(こがら)しのふきすさぶ建久(けんきゅう)七年の真冬になっていた...
吉川英治 「親鸞」
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