...十二歳の時宇多上皇に見出されて...
谷崎潤一郎 「少将滋幹の母」
...後宇多天皇も亦非常に宏才博覽で入らせられたといふことを言つて居ります...
内藤湖南 「日本文化の獨立」
...この後宇多天皇の復古思想といふのがよほど大事であることを御承知願ひたいのであります...
内藤湖南 「日本文化の獨立」
...後宇多天皇のお子さんの後醍醐天皇が出られますが...
内藤湖南 「日本文化の獨立」
...即ち後宇多天皇は從來の密教といふやうなものを根本的に研究し...
内藤湖南 「日本文化の獨立」
...殊に後宇多天皇は日本は密教相應の國である...
内藤湖南 「日本文化の獨立」
...後宇多天皇頃から南北朝の始めに起つた所の新思想は...
内藤湖南 「日本文化の獨立」
...それで南朝が正統とか大覺寺の興隆とかいふことを別としても、私共の考へる所では、ともかくさういふ機運が動き、さういふ機運に相當する龜山、後宇多、後醍醐三代の天皇、或は北朝の花園院の如き名君がだん/″\世の中に出られたので、自然公家の中にもさういふ人が出たのだと思ひます...
内藤湖南 「日本文化の獨立」
...実は後宇多天皇の弘安四年に蒙古退治の御祈願に添えて奉納されたものだそうです...
中里介山 「大菩薩峠」
...後宇多(ごうだ)法皇は...
吉川英治 「私本太平記」
...後宇多法皇崩御(ほうぎょ)の訃(ふ)が聞えたのは...
吉川英治 「私本太平記」
...西華門院(後宇多ノ後宮)の内で小右京(こうきょう)ノ局(つぼね)とよばれていた小女房だった...
吉川英治 「私本太平記」
...やはり後宇多法皇の院御所に...
吉川英治 「私本太平記」
...わが御子(みこ)を後宇多(ごうだ)天皇と立て...
吉川英治 「私本太平記」
...やがて後宇多帝のあとには...
吉川英治 「私本太平記」
...ほかならぬ亡き後宇多の院だった...
吉川英治 「私本太平記」
...つまり皇女でおわしたが――後宇多は...
吉川英治 「私本太平記」
...後宇多の実子の列には入れられなかった...
吉川英治 「私本太平記」
便利!手書き漢字入力検索