...兄(いろせ)天押帶日子(あめおしたらしひこ)の命は、春日の臣、大宅の臣、粟田の臣、小野の臣、柿本の臣、壹比韋の臣、大坂の臣、阿那の臣、多紀の臣、羽栗の臣、知多の臣、牟耶の臣、都怒山の臣、伊勢の飯高の君、壹師の君、近つ淡海の國の造が祖なり...
稗田の阿礼、太の安万侶 「古事記」
...兄のアメオシタラシ彦の命は・春日の臣・大宅(おおやけ)の臣・粟田の臣・小野の臣・柿本の臣・壹比韋(いちひい)の臣・大坂の臣・阿那の臣・多紀(たき)の臣・羽栗の臣・知多の臣・牟耶(むざ)の臣・都怒(つの)山の臣・伊勢の飯高の君・壹師の君・近つ淡海の國の造の祖先です...
稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 「古事記」
...月給十五圓で壹圓の雪駄か」「だけれどもあれ位のにして置けば三月や四月は穿(は)けるわ」「それもさうだねえ」其夜夫婦連れで直ちに雪駄を買つて歸りラムプの下で手から手に取り交されて「あの二圓のは本當によかつた...
高濱虚子 「俳諧師」
...壹圓二十錢の雪駄を買つて得意な細君...
高濱虚子 「俳諧師」
...其二十圓は若い校友達が祝賀運動會の時の賣店で働いた利益で補つてくれて、又壹百圓になる...
土井八枝 「隨筆 藪柑子」
...壹與遣二倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人一...
内藤湖南 「卑彌呼考」
...猶ほ參考すべき各論文の略目を左に掲ぐ白鳥博士「倭女王卑彌呼考」(明治四十三年六月、七月東亞之光第五卷第六號、第七號)白鳥博士「耶馬臺國に就て」(大正十一年七月考古學雜誌第十二卷第十一號)橋本増吉氏「耶馬臺國及び卑彌呼に就て」(明治四十三年十月、十一月、十二月史學雜誌第貳拾壹編第拾號、第拾壹號、第拾貳號)高橋建自博士「考古學上より觀たる耶馬臺國」(大正十一年一月考古學雜誌第十二卷第五號)三宅米吉博士「耶馬臺國に就て」(大正十一年七月考古學雜誌第十二卷第十一號)笠井新也氏「耶馬臺國は大和である」(大正十一年三月考古學雜誌第十二卷第七號)笠井新也氏「卑彌呼時代に於ける畿内と九州との文化的並に政治的關係」(大正十二年三月考古學雜誌第十三卷第七號)笠井新也氏「卑彌呼即ち倭迹々日百襲姫命」(大正十三年四月考古學雜誌第十四卷第七號)中山太郎氏「魏志倭人傳の土俗學的考察」(大正十一年三月、五月、八月考古學雜誌第十二卷第七號、第九號、第十二號)山田孝雄氏「狗奴國考」(大正十一年四月、五月、六月、七月、八月考古學雜誌第十二卷第八號、九號、十號、十一號、十二號)志田不動麿氏「耶馬臺國方位考」(昭和二年十月一日史學雜誌第參拾八編第拾號)以上八氏中、九州説は白鳥博士と橋本氏とにして、餘の六氏は近畿説なり...
内藤湖南 「卑彌呼考」
...壹州に只一つ温泉場があるが入江になつて居てあたりを鯨伏村(いさふしむら)といふ...
長塚節 「壹岐國勝本にて」
...その奥平壹岐(おくだいらいき)と云う人に与兵衛(よへえ)と云う実父(じっぷ)の隠居があって...
福澤諭吉 「福翁自伝」
...しらばくれて奥平壹岐(おくだいらいき)の家に行て...
福澤諭吉 「福翁自伝」
...その時江戸詰(づめ)の家老には奥平壹岐(おくだいらいき)が来て居る...
福澤諭吉 「福翁自伝」
...壹岐と私との関係に就(つい)ては...
福澤諭吉 「福翁自伝」
...その時に唐津の殿様で小笠原壹岐守(おがさわらいきのかみ)と云う閣老がある...
福澤諭吉 「福翁自伝」
...壹岐守は上方(かみがた)に行くと云て品川湾を出発したから...
福澤諭吉 「福翁自伝」
...所が壹岐守は本牧を廻らずに横浜の方へ這入(はいっ)て...
福澤諭吉 「福翁自伝」
...ところが壹岐の島に行くと芋と穀類の粉とを釜の中で練つたものをデェハと謂つて居る(方言集)...
柳田國男 「食料名彙」
...正月の幸ひ木の飾りには缺くべからざるものとなつて居る(續壹岐島方言集)...
柳田國男 「食料名彙」
...英壹番と云われていた奴でね...
吉田茂 「私は隠居ではない」
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