例文・使い方一覧でみる「卒然として」の意味


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...それとは全く違つた心持が卒然として起つて來る...   それとは全く違つた心持が卒然として起つて來るの読み方
石川啄木 「硝子窓」

...卒然としてこの文学勃興の機運に際会したは全く何かの因縁であったろう...   卒然としてこの文学勃興の機運に際会したは全く何かの因縁であったろうの読み方
内田魯庵 「二葉亭四迷の一生」

...彼は卒然として最初の幸太郎の手紙のことを思い出した...   彼は卒然として最初の幸太郎の手紙のことを思い出したの読み方
梅崎春生 「狂い凧」

...我が貿易は卒然として止まるであろう...   我が貿易は卒然として止まるであろうの読み方
大隈重信 「三たび東方の平和を論ず」

...卒然として古典の思想と現代とを結びつけるのが無意味であることは...   卒然として古典の思想と現代とを結びつけるのが無意味であることはの読み方
津田左右吉 「日本精神について」

...卒然として往年かの二艦を横浜の埠頭(ふとう)に見しことを思い出(い)でたる武男は...   卒然として往年かの二艦を横浜の埠頭に見しことを思い出でたる武男はの読み方
徳冨蘆花 「小説 不如帰」

...北支事変の発生によって政治的な挙国一致なる儀礼が卒然として社会的に発生し得るということのメカニズムは...   北支事変の発生によって政治的な挙国一致なる儀礼が卒然として社会的に発生し得るということのメカニズムはの読み方
戸坂潤 「挙国一致体制と国民生活」

...卒然として機関説排撃運動へと戦線統一を企てることが出来るようになった...   卒然として機関説排撃運動へと戦線統一を企てることが出来るようになったの読み方
戸坂潤 「現代日本の思想対立」

...卒然として神秘的なテーゼを持ち出して来る...   卒然として神秘的なテーゼを持ち出して来るの読み方
戸坂潤 「思想としての文学」

...その問題は「卒然として答えるにはあまりに多岐多端なことであるから...   その問題は「卒然として答えるにはあまりに多岐多端なことであるからの読み方
中谷宇吉郎 「露伴先生と科学」

...卒然として容赦なく食道を逆(さか)さまに流れ出た...   卒然として容赦なく食道を逆さまに流れ出たの読み方
夏目漱石 「思い出す事など」

...卒然として未来におけるわが運命を自覚した時の涙は発作的(ほっさてき)に来る...   卒然として未来におけるわが運命を自覚した時の涙は発作的に来るの読み方
夏目漱石 「虞美人草」

...空(くう)を劃(くわく)して居る之(これ)を物といひ、時に沿うて起る之を事といふ、事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、故に事物の変遷推移を名づけて人生といふ、猶(なほ)麕身(きんしん)牛尾(ぎうび)馬蹄(ばてい)のものを捉へて麟(きりん)といふが如し、かく定義を下せば、頗(すこぶ)る六つかしけれど、是を平仮名(ひらがな)にて翻訳すれば、先づ地震、雷、火事、爺(おやぢ)の怖きを悟り、砂糖と塩の区別を知り、恋の重荷義理の柵(しがらみ)抔(など)いふ意味を合点(がてん)し、順逆の二境を踏み、禍福の二門をくゞるの謂(いひ)に過ぎず、但(たゞ)其謂に過ぎずと観ずれば、遭逢(さうほう)百端(ひやくたん)千差万別、十人に十人の生活あり、百人に百人の生活あり、千百万人亦(また)各(おの/\)千百万人の生涯を有す、故に無事なるものは午砲を聞きて昼飯を食ひ、忙しきものは孔席(こうせき)暖(あたゝ)かならず、墨突(ぼくとつ)黔(けん)せずとも云ひ、変化の多きは塞翁(さいをう)の馬に(しんにう)をかけたるが如く、不平なるは放たれて沢畔(たくはん)に吟じ、壮烈なるは匕首(ひしゅ)を懐(ふところ)にして不測の秦(しん)に入り、頑固なるは首陽山の薇(わらび)に余命を繋(つな)ぎ、世を茶にしたるは竹林に髯(ひげ)を拈(ひね)り、図太(づぶと)きは南禅寺の山門に昼寝して王法を懼(おそ)れず、一々数へ来れば日も亦足らず、中々錯雑なものなり、加之(のみならず)個人の一行一為、各其由(よ)る所を異にし、其及ぼす所を同じうせず、人を殺すは一なれども、毒を盛るは刃(やいば)を加ふると等しからず、故意なるは不慮の出来事と云ふを得ず、時には間接ともなり、或は又直接ともなる、之を分類するだに相応の手数はかゝるべし、況(ま)して国に言語の相違あり、人に上下の区別ありて、同一の事物も種々の記号を有して、吾人(ごじん)の面目を燎爛(れうらん)せんとするこそ益(ます/\)面倒なれ、比較するだに畏(かしこ)けれど、万乗には之を崩御(ほうぎよ)といひ、匹夫(ひつぷ)には之を「クタバル」といひ、鳥には落ちるといひ、魚には上がるといひて、而(しか)も死は即(すなは)ち一なるが如し、若(も)し人生をとつて銖分縷析(しゆぶんるせき)するを得ば、天上の星と磯(いそ)の真砂(まさご)の数も容易に計算し得べし小説は此錯雑なる人生の一側面を写すものなり、一側面猶(なほ)且(かつ)単純ならず、去れども写して神(しん)に入るときは、事物の紛糾(ふんきう)乱雑なるものを綜合して一の哲理を数ふるに足る、われ「エリオツト」の小説を読んで天性の悪人なき事を知りぬ、又罪を犯すものの恕(ゆる)すべくして且憐(あはれ)むべきを知りぬ、一挙手一投足わが運命に関係あるを知りぬ、「サツカレー」の小説を読んで正直なるものの馬鹿らしきを知りぬ、狡猾(かうくわつ)奸佞(かんねい)なるものの世に珍重せらるべきを知りぬ、「ブロンテ」の小説を読んで人に感応あることを知りぬ、蓋(けだ)し小説に境遇を叙するものあり、品性を写すものあり、心理上の解剖を試むるものあり、直覚的に人世を観破するものあり、四者各其方面に向つて吾人に教ふる所なきにあらず、然れども人生は心理的解剖を以て終結するものにあらず、又直覚を以て観破し了(おほ)すべきにあらず、われは人生に於て是等(これら)以外に一種不可思議のものあるべきを信ず、所謂(いはゆる)不可思議とは「カツスル、オフ、オトラントー」の中の出来事にあらず、「タムオーシヤンター」を追(おひ)懸(か)けたる妖怪にあらず、「マクベス」の眼前に見(あら)はるゝ幽霊にあらず、「ホーソーン」の文「コルリツヂ」の詩中に入るべき人物の謂(いひ)にあらず、われ手を振り目を揺(うご)かして、而も其の何の故に手を振り目を揺かすかを知らず、因果の大法を蔑(ないがしろ)にし、自己の意思を離れ、卒然として起り、驀地(ばくち)に来るものを謂(い)ふ、世俗之を名づけて狂気と呼ぶ、狂気と呼ぶ固(もと)より不可なし、去れども此種の所為を目して狂気となす者共は、他人に対してかゝる不敬の称号を呈するに先(さきだ)つて、己等(おのれら)亦曾(かつ)て狂気せる事あるを自認せざる可(べ)からず、又何時(いつ)にても狂気し得る資格を有する動物なる事を承知せざるべからず、人豈(あに)自ら知らざらんやとは支那の豪傑の語なり、人々自ら知らば固(もと)より文句はなきなり、人を指して馬鹿といふ、是れ己が利口なるの時に於て発するの批評なり、己も亦何時にても馬鹿の仲間入りをするに充分なる可能力を具備するに気が付かぬものの批評なり、局に当る者は迷ひ、傍観するものは嗤(わら)ふ、而も傍観者必ずしも棊(き)を能くせざるを如何(いかん)せん、自ら知るの明あるもの寡(すく)なしとは世間にて云ふ事なり、われは人間に自知の明なき事を断言せんとす、之を「ポー」に聞く、曰(いは)く、功名眼前にあり、人々何ぞ直ちに自己の胸臆を叙して思ひのまゝを言はざる、去れど人ありて思(おもひ)の儘(まゝ)を書かんとして筆を執(と)れば、筆忽ち禿(とく)し、紙を展(の)ぶれば紙忽ち縮む、芳声(はうせい)嘉誉(かよ)の手に唾(つば)して得らるべきを知りながら、何人(なんびと)も躇(ちゆうちよ)して果たさざるは是が為なりと、人豈(あに)自ら知らざらんや、「ポー」の言を反覆熟読せば、思半(なか)ばに過ぎん、蓋(けだ)し人は夢を見るものなり、思ひも寄らぬ夢を見るものなり、覚めて後冷汗背に洽(あまね)く、茫然自失する事あるものなり、夢ならばと一笑に附し去るものは、一を知つて二を知らぬものなり、夢は必ずしも夜中臥床の上にのみ見舞に来るものにあらず、青天にも白日にも来り、大道の真中にても来り、衣冠束帯の折だに容赦なく闥(たつ)を排して闖入(ちんにふ)し来る、機微の際忽然(こつぜん)として吾人を愧死(きし)せしめて、其来る所固(もと)より知り得べからず、其去る所亦尋ね難し、而も人生の真相は半ば此夢中にあつて隠約たるものなり、此自己の真相を発揮するは即ち名誉を得るの捷径(せふけい)にして、此捷径に従ふは卑怯(ひけふ)なる人類にとりて無上の難関なり、願はくば人豈(あに)自ら知らざらんや抔(など)いふものをして、誠実に其心の歴史を書かしめん、彼必ず自ら知らざるに驚かん三陸の海嘯(つなみ)濃尾(のうび)の地震之を称して天災といふ、天災とは人意の如何(いかん)ともすべからざるもの、人間の行為は良心の制裁を受け、意思の主宰に従ふ、一挙一動皆責任あり、固(もと)より洪水(こうずゐ)飢饉(ききん)と日を同じうして論ずべきにあらねど、良心は不断の主権者にあらず、四肢(しし)必ずしも吾意思の欲する所に従はず、一朝の変俄然(がぜん)として己霊の光輝を失して、奈落(ならく)に陥落し、闇中に跳躍する事なきにあらず、是時(このとき)に方(あた)つて、わが身心には秩序なく、系統なく、思慮なく、分別なく、只一気の盲動するに任ずるのみ、若し海嘯地震を以て人意にあらずとせば、此盲動的動作亦必ず人意にあらじ、人を殺すものは死すとは天下の定法(ぢやうはふ)なり、されども自ら死を決して人を殺すものは寡(すく)なし、呼息逼(せま)り白刃(はくじん)閃(ひらめ)く此刹那(せつな)、既に身あるを知らず、焉(いづく)んぞ敵あるを知らんや、電光影裡(えいり)に春風を斫(き)るものは、人意か将(は)た天意か青門老圃(らうほ)独(ひと)り一室の中に坐し、冥思(めいし)遐捜(かさう)す、両頬赤(せき)を発し火の如く、喉間(こうかん)咯々(かく/\)声あるに至る、稿を属(しょく)し日を積まざれば出でず、思を構ふるの時に方(あた)つて大苦あるものの如し、既に来れば則ち大喜、衣を牽(ひ)き、床を遶(めぐ)りて狂呼す、「バーンス」詩を作りて河上に徘徊(はいくわい)す、或は呻吟(しんぎん)し、或は低唱す、忽ちにして大声放歌欷歔(ききょ)涙下る、西人此種の所作をなづけて、「インスピレーション」といふ、「インスピレーション」とは人意か将(は)た天意か「デクインシー」曰く、世には人心の如何(いか)に善にして、又如何に悪なるかを知らで過ぐるものありと、他人の身の上ならば無論の事なり、われは「デクインシー」に反問せん、君は君自身がどの位の善人にして、又どの位の悪人たるを承知なるかと、豈(あに)啻(たゞ)善悪のみならん、怯勇(けふゆう)剛弱高下の分、皆此反問中に入るを得べし、平かなるときは天落ち地欠くるとも驚かじと思へども、一旦事あれば鼠糞(そふん)梁上(りやうじやう)より墜(お)ちてだに消魂の種となる、自ら口惜しと思へど詮(せん)なし、源氏征討の宣旨(せんじ)を蒙(かうむ)りて、遥々(はる/″\)富士川迄押し寄せたる七万余騎の大軍が、水鳥の羽音に一矢(いつし)も射らで逃げ帰るとは、平家物語を読むものの馬鹿々々しと思ふ処ならん、啻(たゞ)に後代の吾々が馬鹿々々しと思ふのみにあらず、当人たる平家の侍共(さむらひども)も翌日は定めて口惜しと思ひつらん、去れども彼等は富士川に宿したる晩に限りて、急に揃ひも揃うて臆病風にかゝりたるなり、此臆病風は二十三日の半夜忽然吹き来りて、七万余騎の陣中を馳(か)け廻(めぐ)り、翌くる二十四日の暁天に至りて寂(せき)として息(や)みぬ、誰か此風の行衛(ゆくゑ)を知る者ぞ犬に吠(ほ)え付かれて、果(は)てな己は泥棒かしらん、と結論するものは余程の馬鹿者か、非常な狼狽者(あわてもの)と勘定するを得べし、去れども世間には賢者を以て自ら居り、智者を以て人より目せらるゝもの、亦此病にかかることあり、大丈夫と威張るものの最後の場に臆したる、卑怯(ひけふ)の名を博したるものが、急に猛烈の勢を示せる、皆是れ自ら解釈せんと欲して能はざるの現象なり、況(いはん)や他人をや、二点を求め得て之を通過する直線の方向を知るとは幾何学(きかがく)上の事、吾人(ごじん)の行為は二点を知り三点を知り、重ねて百点に至るとも、人生の方向を定むるに足らず、人生は一個の理窟に纏(まと)め得るものにあらずして、小説は一個の理窟を暗示するに過ぎざる以上は、「サイン」「コサイン」を使用して三角形の高さを測ると一般なり、吾人の心中には底なき三角形あり、二辺並行せる三角形あるを奈何(いかん)せん、若(も)し人生が数学的に説明し得るならば、若し与へられたる材料よりXなる人生が発見せらるゝならば、若し人間が人間の主宰たるを得るならば、若し詩人文人小説家が記載せる人生の外に人生なくんば、人生は余程便利にして、人間は余程えらきものなり、不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且(かつ)乱暴に出で来る、海嘯と震災は、啻(たゞ)に三陸と濃尾に起るのみにあらず、亦自家三寸の丹田(たんでん)中にあり、険呑(けんのん)なる哉(かな)(明治二十九年十月、第五高等学校『竜南会雑誌』)...   空を劃して居る之を物といひ、時に沿うて起る之を事といふ、事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、故に事物の変遷推移を名づけて人生といふ、猶麕身牛尾馬蹄のものを捉へて麟といふが如し、かく定義を下せば、頗る六つかしけれど、是を平仮名にて翻訳すれば、先づ地震、雷、火事、爺の怖きを悟り、砂糖と塩の区別を知り、恋の重荷義理の柵抔いふ意味を合点し、順逆の二境を踏み、禍福の二門をくゞるの謂に過ぎず、但其謂に過ぎずと観ずれば、遭逢百端千差万別、十人に十人の生活あり、百人に百人の生活あり、千百万人亦各千百万人の生涯を有す、故に無事なるものは午砲を聞きて昼飯を食ひ、忙しきものは孔席暖かならず、墨突黔せずとも云ひ、変化の多きは塞翁の馬にをかけたるが如く、不平なるは放たれて沢畔に吟じ、壮烈なるは匕首を懐にして不測の秦に入り、頑固なるは首陽山の薇に余命を繋ぎ、世を茶にしたるは竹林に髯を拈り、図太きは南禅寺の山門に昼寝して王法を懼れず、一々数へ来れば日も亦足らず、中々錯雑なものなり、加之個人の一行一為、各其由る所を異にし、其及ぼす所を同じうせず、人を殺すは一なれども、毒を盛るは刃を加ふると等しからず、故意なるは不慮の出来事と云ふを得ず、時には間接ともなり、或は又直接ともなる、之を分類するだに相応の手数はかゝるべし、況して国に言語の相違あり、人に上下の区別ありて、同一の事物も種々の記号を有して、吾人の面目を燎爛せんとするこそ益面倒なれ、比較するだに畏けれど、万乗には之を崩御といひ、匹夫には之を「クタバル」といひ、鳥には落ちるといひ、魚には上がるといひて、而も死は即ち一なるが如し、若し人生をとつて銖分縷析するを得ば、天上の星と磯の真砂の数も容易に計算し得べし小説は此錯雑なる人生の一側面を写すものなり、一側面猶且単純ならず、去れども写して神に入るときは、事物の紛糾乱雑なるものを綜合して一の哲理を数ふるに足る、われ「エリオツト」の小説を読んで天性の悪人なき事を知りぬ、又罪を犯すものの恕すべくして且憐むべきを知りぬ、一挙手一投足わが運命に関係あるを知りぬ、「サツカレー」の小説を読んで正直なるものの馬鹿らしきを知りぬ、狡猾奸佞なるものの世に珍重せらるべきを知りぬ、「ブロンテ」の小説を読んで人に感応あることを知りぬ、蓋し小説に境遇を叙するものあり、品性を写すものあり、心理上の解剖を試むるものあり、直覚的に人世を観破するものあり、四者各其方面に向つて吾人に教ふる所なきにあらず、然れども人生は心理的解剖を以て終結するものにあらず、又直覚を以て観破し了すべきにあらず、われは人生に於て是等以外に一種不可思議のものあるべきを信ず、所謂不可思議とは「カツスル、オフ、オトラントー」の中の出来事にあらず、「タムオーシヤンター」を追懸けたる妖怪にあらず、「マクベス」の眼前に見はるゝ幽霊にあらず、「ホーソーン」の文「コルリツヂ」の詩中に入るべき人物の謂にあらず、われ手を振り目を揺かして、而も其の何の故に手を振り目を揺かすかを知らず、因果の大法を蔑にし、自己の意思を離れ、卒然として起り、驀地に来るものを謂ふ、世俗之を名づけて狂気と呼ぶ、狂気と呼ぶ固より不可なし、去れども此種の所為を目して狂気となす者共は、他人に対してかゝる不敬の称号を呈するに先つて、己等亦曾て狂気せる事あるを自認せざる可からず、又何時にても狂気し得る資格を有する動物なる事を承知せざるべからず、人豈自ら知らざらんやとは支那の豪傑の語なり、人々自ら知らば固より文句はなきなり、人を指して馬鹿といふ、是れ己が利口なるの時に於て発するの批評なり、己も亦何時にても馬鹿の仲間入りをするに充分なる可能力を具備するに気が付かぬものの批評なり、局に当る者は迷ひ、傍観するものは嗤ふ、而も傍観者必ずしも棊を能くせざるを如何せん、自ら知るの明あるもの寡なしとは世間にて云ふ事なり、われは人間に自知の明なき事を断言せんとす、之を「ポー」に聞く、曰く、功名眼前にあり、人々何ぞ直ちに自己の胸臆を叙して思ひのまゝを言はざる、去れど人ありて思の儘を書かんとして筆を執れば、筆忽ち禿し、紙を展ぶれば紙忽ち縮む、芳声嘉誉の手に唾して得らるべきを知りながら、何人も躇して果たさざるは是が為なりと、人豈自ら知らざらんや、「ポー」の言を反覆熟読せば、思半ばに過ぎん、蓋し人は夢を見るものなり、思ひも寄らぬ夢を見るものなり、覚めて後冷汗背に洽く、茫然自失する事あるものなり、夢ならばと一笑に附し去るものは、一を知つて二を知らぬものなり、夢は必ずしも夜中臥床の上にのみ見舞に来るものにあらず、青天にも白日にも来り、大道の真中にても来り、衣冠束帯の折だに容赦なく闥を排して闖入し来る、機微の際忽然として吾人を愧死せしめて、其来る所固より知り得べからず、其去る所亦尋ね難し、而も人生の真相は半ば此夢中にあつて隠約たるものなり、此自己の真相を発揮するは即ち名誉を得るの捷径にして、此捷径に従ふは卑怯なる人類にとりて無上の難関なり、願はくば人豈自ら知らざらんや抔いふものをして、誠実に其心の歴史を書かしめん、彼必ず自ら知らざるに驚かん三陸の海嘯濃尾の地震之を称して天災といふ、天災とは人意の如何ともすべからざるもの、人間の行為は良心の制裁を受け、意思の主宰に従ふ、一挙一動皆責任あり、固より洪水飢饉と日を同じうして論ずべきにあらねど、良心は不断の主権者にあらず、四肢必ずしも吾意思の欲する所に従はず、一朝の変俄然として己霊の光輝を失して、奈落に陥落し、闇中に跳躍する事なきにあらず、是時に方つて、わが身心には秩序なく、系統なく、思慮なく、分別なく、只一気の盲動するに任ずるのみ、若し海嘯地震を以て人意にあらずとせば、此盲動的動作亦必ず人意にあらじ、人を殺すものは死すとは天下の定法なり、されども自ら死を決して人を殺すものは寡なし、呼息逼り白刃閃く此刹那、既に身あるを知らず、焉んぞ敵あるを知らんや、電光影裡に春風を斫るものは、人意か将た天意か青門老圃独り一室の中に坐し、冥思遐捜す、両頬赤を発し火の如く、喉間咯々声あるに至る、稿を属し日を積まざれば出でず、思を構ふるの時に方つて大苦あるものの如し、既に来れば則ち大喜、衣を牽き、床を遶りて狂呼す、「バーンス」詩を作りて河上に徘徊す、或は呻吟し、或は低唱す、忽ちにして大声放歌欷歔涙下る、西人此種の所作をなづけて、「インスピレーション」といふ、「インスピレーション」とは人意か将た天意か「デクインシー」曰く、世には人心の如何に善にして、又如何に悪なるかを知らで過ぐるものありと、他人の身の上ならば無論の事なり、われは「デクインシー」に反問せん、君は君自身がどの位の善人にして、又どの位の悪人たるを承知なるかと、豈啻善悪のみならん、怯勇剛弱高下の分、皆此反問中に入るを得べし、平かなるときは天落ち地欠くるとも驚かじと思へども、一旦事あれば鼠糞梁上より墜ちてだに消魂の種となる、自ら口惜しと思へど詮なし、源氏征討の宣旨を蒙りて、遥々富士川迄押し寄せたる七万余騎の大軍が、水鳥の羽音に一矢も射らで逃げ帰るとは、平家物語を読むものの馬鹿々々しと思ふ処ならん、啻に後代の吾々が馬鹿々々しと思ふのみにあらず、当人たる平家の侍共も翌日は定めて口惜しと思ひつらん、去れども彼等は富士川に宿したる晩に限りて、急に揃ひも揃うて臆病風にかゝりたるなり、此臆病風は二十三日の半夜忽然吹き来りて、七万余騎の陣中を馳け廻り、翌くる二十四日の暁天に至りて寂として息みぬ、誰か此風の行衛を知る者ぞ犬に吠え付かれて、果てな己は泥棒かしらん、と結論するものは余程の馬鹿者か、非常な狼狽者と勘定するを得べし、去れども世間には賢者を以て自ら居り、智者を以て人より目せらるゝもの、亦此病にかかることあり、大丈夫と威張るものの最後の場に臆したる、卑怯の名を博したるものが、急に猛烈の勢を示せる、皆是れ自ら解釈せんと欲して能はざるの現象なり、況や他人をや、二点を求め得て之を通過する直線の方向を知るとは幾何学上の事、吾人の行為は二点を知り三点を知り、重ねて百点に至るとも、人生の方向を定むるに足らず、人生は一個の理窟に纏め得るものにあらずして、小説は一個の理窟を暗示するに過ぎざる以上は、「サイン」「コサイン」を使用して三角形の高さを測ると一般なり、吾人の心中には底なき三角形あり、二辺並行せる三角形あるを奈何せん、若し人生が数学的に説明し得るならば、若し与へられたる材料よりXなる人生が発見せらるゝならば、若し人間が人間の主宰たるを得るならば、若し詩人文人小説家が記載せる人生の外に人生なくんば、人生は余程便利にして、人間は余程えらきものなり、不測の変外界に起り、思ひがけぬ心は心の底より出で来る、容赦なく且乱暴に出で来る、海嘯と震災は、啻に三陸と濃尾に起るのみにあらず、亦自家三寸の丹田中にあり、険呑なる哉の読み方
夏目漱石 「人生」

...高柳君は卒然として帽子を取って...   高柳君は卒然として帽子を取っての読み方
夏目漱石 「野分」

...俺に渡りがつけたいのだ」平次は卒然として問いました...   俺に渡りがつけたいのだ」平次は卒然として問いましたの読み方
野村胡堂 「銭形平次捕物控」

...卒然としてこの錯雑紛糾した事件の真相を洞察(みぬい)てしまった...   卒然としてこの錯雑紛糾した事件の真相を洞察てしまったの読み方
久生十蘭 「魔都」

...それが卒然として或る刺※から詩を書き初めた...   それが卒然として或る刺※から詩を書き初めたの読み方
福士幸次郎 「太陽の子」

...卒然として蝉脱(せんだつ)して官僚になったのだ...   卒然として蝉脱して官僚になったのだの読み方
本庄陸男 「石狩川」

「卒然として」の書き方・書き順

いろんなフォントで「卒然として」


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