...元亀(げんき)天正(てんしやう)の頃(ころ)なれば一国一城の主(ぬし)となる手柄(てがら)も難(かた)からぬが...
饗庭篁村 「隅田の春」
...アコスタ等エズイット派の僧侶が本国に寄せた天文十八年(エズイット派が初めて渡来した年)から元亀二年(南蛮寺創設後三年)までの通信八十八通を集めたもので...
内田魯庵 「灰燼十万巻」
...元亀三年には信長が一寸八分を...
薄田泣菫 「茶話」
...元亀二年五月、南部高信と戦ひこれを斬り、天正六年七月二十七日、波岡城主北畠顕村を伐ち其領を併せ、尋で近傍の諸邑を略し、十三年には凡そ津軽を一統し、十五年豊臣秀吉に謁せんとして発途せしも、秋田城介安倍実季、道を遮り果さずして還る...
太宰治 「津軽」
...元亀天正の生残りといった体(てい)で...
久生十蘭 「ひどい煙」
...ときは元亀(げんき)三年(一五七二)十二月二十一日黄昏(たそがれ)すぎのことであった...
山本周五郎 「死處」
...元亀三年から翌天正元年にかけての信玄は...
吉川英治 「上杉謙信」
...なお、林崎甚助自身は、各地を遊歴して、自然、門流のひろまる一方、後年またさらに、鹿島神宮の武林(ぶりん)に入って、天真神道流の研鑽(けんさん)に身をゆだね、元亀何年かには、越後の上杉謙信の幕将、松田尾張守に随身して、戦場をも馳駆したらしいが、謙信の歿後(ぼつご)は、杳(よう)として、その足蹟も定かでない...
吉川英治 「剣の四君子」
...元亀(げんき)元年...
吉川英治 「新書太閤記」
...総じて徳川鎖国(さこく)主義以前の――元亀...
吉川英治 「新書太閤記」
...「横川の和尚とは、叡山の亮信阿闍梨(りょうしんあじゃり)のことではないか」「さようでございます」「すぐる歳(とし)、元亀二年の秋、叡山(えいざん)焼打の折には、この光秀も一手の先鋒(せんぽう)を命ぜられ、山上の根本中堂、山王二十一社、そのほかの霊社仏塔、悉(ことごと)くを焔(ほのお)となし、刃向う僧兵のみか、稚子(ちご)上人(しょうにん)、凡下(ぼんげ)高僧、老幼男女のさべつなく、これを斬って、火に投じ、ふたたびこの深山(みやま)には、人はおろか、草木の芽も出まじと思わるるほど、掃滅殺戮(そうめつさつりく)のかぎりを為(な)し尽したが……もういつしかそこには、また生き残りの法師たちが帰って来て、生きる道を求めておるとみゆるの」「さればです...
吉川英治 「新書太閤記」
...そのうちにあの元亀二年の兵燹(へいせん)で...
吉川英治 「新書太閤記」
...苛烈(かれつ)なる永禄(えいろく)、元亀(げんき)、天正(てんしょう)の世にかけて、彼女も良人に遅れぬものを日々に学んでいたのである...
吉川英治 「新書太閤記」
...元亀(げんき)元年となっては...
吉川英治 「茶漬三略」
...享禄、天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長――とこう長い乱世の中を生きて来て、殊に四十七歳までの壮年期は、三好党の乱だの、足利氏の没落だの、松永氏や織田氏の興亡だのに、この地方にあっても、弓矢を措(お)く遑(いとま)はなかったのであるが、自分でも、「ふしぎと死ななかった」と、いっている...
吉川英治 「宮本武蔵」
...元亀天正の兵乱は漸く白熱点に達して来たのである...
和辻哲郎 「鎖国」
...信長は元亀二年(一五七一年)に秀吉を通じて二百目玉の大筒を...
和辻哲郎 「鎖国」
...(イ)伝能因所持本の系統(前掲注2の表を参照)(ロ)安貞二年奥書き本の系統(ハ)前田家本(鎌倉中期以前のもの)の系統(ニ)堺(さかい)本(元亀(げんき)元年の奥書きあり...
和辻哲郎 「日本精神史研究」
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