...能楽において、勧進帳の後半、義経軍との一戦に敗れ落命する福原伯耆守の様を演じる...
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太宰治 「右大臣実朝」
...伯耆の安綱か」と言って...
中里介山 「大菩薩峠」
...もし伯耆の安綱でなければ...
中里介山 「大菩薩峠」
...幸内が伯耆の安綱といわれる刀を持って出て家へ帰らないこと...
中里介山 「大菩薩峠」
...伯耆(ほうき)の安綱が悪いのじゃから不祥(ふしょう)せい……それからまたお前の主人の伊太夫の娘...
中里介山 「大菩薩峠」
...時宗に於ては一遍の足跡は山陰道では但馬にも、伯耆、出雲にも、山陽道では備後に、南海道では、紀伊并びに四國の伊豫は勿論讃岐にも、九州では筑前にも及んだのであるが、其他の遊行僧では、四祖呑海及び、其弟子の隨音といふが、新に石見、隱岐に布教し、二祖眞教が備後と伊豫に巡錫した位のもので、外に取り立てゝ云ふ程のこともない...
原勝郎 「鎌倉時代の布教と當時の交通」
...夜に到れば彼國にて明(あかり)す民家の燈たしかに見ゆるなりと渡海せし船人ども茗談(めいだん)す(伯耆民談)...
松浦武四郎 「他計甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57](竹島)雜誌」
...私は伯耆の米子へ興行で行つた時...
松本幸四郎 「大森彦七と名和長年」
...丹波氷上(ひかみ)郡鴨庄(かものしょう)村大字牧字大岩ガ平(なる)伯耆(ほうき)東伯(とうはく)郡北谷村字詰平(つめがなる)美作勝田郡豊田村字(なる)但馬(たじま)美方(みかた)郡村岡町大字板仕野(いたしの)字平ルこれらは文字が語義を証明している...
柳田國男 「地名の研究」
...伯耆(ほうき)へと越えて行かれますか」「ま...
吉川英治 「私本太平記」
...土岐伯耆(ほうき)...
吉川英治 「私本太平記」
...伯耆から次々と入ってくる船上山の情報を手にするたび...
吉川英治 「私本太平記」
...のみならず、さらに遠く、芸州吉田の毛利の本国を中心とし、伯耆(ほうき)、備中(びっちゅう)、その余にわたる敵国のうごきを大観し、吉川元春(きっかわもとはる)の軍、小早川隆景(たかかげ)の軍、毛利輝元(もうりてるもと)の軍などが、これへ来援してくる場合の大勢をもあらかじめ察するに便であった...
吉川英治 「新書太閤記」
...……伯耆守(ほうきのかみ)を使いによこして...
吉川英治 「新書太閤記」
...賀使(がし)として、伯耆守数正は、大坂へ赴き、徳川家重宝の初花(はつはな)の茶入れを――家康から秀吉へ贈る――歴史的な使命を勤めた...
吉川英治 「新書太閤記」
...「伯耆(ほうき)どのが逐電(ちくてん)した」「御城代が...
吉川英治 「新書太閤記」
...「忘恩の伯耆守(ほうきのかみ)も、大坂方へ属してみたら、後には、元の巣をおもい出して、ほぞを噛む日がございましょう」「――要するに、伯耆守が、世上一流の人物と見られたのも、徳川家という背景があったからで、太閤(たいこう)に従属したとて、何ができるものですか」等々々、みな悪(あ)しざまに、数正の非行を罵(ののし)って、家康の鬱(うつ)を、慰めようとするのだった...
吉川英治 「新書太閤記」
...伯耆守は、それを直接受け取った上、手短かに要領を訊き取って、『神妙な仕方である...
吉川英治 「新編忠臣蔵」
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