...大伴狭手彦連発レ船渡二任那一之時...
高木敏雄 「比較神話学」
...此等も多分日本から任那に派遣せられて居る太宰(みこともち)が朝廷の名を濫用したのであらうなどとも解釋せられて居る...
内藤湖南 「聖徳太子」
...支那の南朝の方から與へる時には百濟を除いて倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事と稱して居る...
内藤湖南 「聖徳太子」
...斯の如きことは任那の太宰では爲し得べきことではないと考へられる...
内藤湖南 「聖徳太子」
...此を以て此記事が任那の我國に服屬せる後に出でたるを推すに足る...
内藤湖南 「卑彌呼考」
...更に任那の服屬を導きたる者なるべし...
内藤湖南 「卑彌呼考」
...魏志の記事は任那服屬の後なるべきこと...
内藤湖南 「卑彌呼考」
...更に任那の服屬を導きたる者なるべし...
内藤湖南 「卑彌呼考」
...任那を崇神天皇の時...
内藤湖南 「卑彌呼考」
...田狭を任那(みまな)国司として差しむけ...
蜷川新 「天皇」
...任那を根城にして...
蜷川新 「天皇」
...任那を根城にして反抗した...
蜷川新 「天皇」
...弁韓(べんかん)は日本(につぽん)の植民地(しよくみんち)の任那(みまな)になり...
濱田青陵 「博物館」
...中(なか)にも日本(につぽん)の植民地(しよくみんち)だつた任那(みまな)や...
濱田青陵 「博物館」
...山城国諸藩の内に任那(みまな)から帰化したという多々良公(たたらのきみ)氏というのは...
柳田國男 「地名の研究」
...右の任那には古くは多々羅という地名のあったこと...
柳田國男 「地名の研究」
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