...仍(ヨ)リテアダムハ...
海野十三 「軍用鼠」
...仍(よ)って案ずるに...
海野十三 「沈没男」
...仍って如件四月一日 女坂染吉※大久保一平殿要するに一平なる人物は...
海野十三 「ネオン横丁殺人事件」
...仍(よ)って向うに行っている服部宇之吉(はっとりうのきち)氏と海老名弾正(えびなだんじょう)氏...
大隈重信 「大戦乱後の国際平和」
...仍つて将軍家御対面有り...
太宰治 「右大臣実朝」
...仍つて此の如き類...
太宰治 「右大臣実朝」
...七日、丁亥、越後国三味庄の領家雑掌、訴訟に依つて参向し、大倉辺の民屋に寄宿せしむるの処、今暁盗人の為に殺害せらる、曙の後、左衛門尉義盛之を尋ね沙汰し、敵人と称して、件の庄の地頭代を召し取る、仍つて其親類等、縁者の女房に属し、内々尼御台所の御方に訴申す、而るに義盛の沙汰相違せざるの由、之を仰出さる、申次駿河局突鼻に及ぶと云々...
太宰治 「右大臣実朝」
...仍つて再び子細を申す能はずと云々...
太宰治 「右大臣実朝」
...三日、丙申、霽、諸国炎旱を愁ふ、仍つて将軍家、祈雨の為に八戒を保ち、法花経を転読し給ふ...
太宰治 「右大臣実朝」
...十七日、甲子、晴、宋人和卿唐船を造り畢んぬ、今日数百輩の疋夫を諸御家人より召し、彼船を由比浦に浮べんと擬す、即ち御出有り、右京兆監臨し給ふ、信濃守行光今日の行事たり、和卿の訓説に随ひ、諸人筋力を尽して之を曳くこと、午剋より申の斜に至る、然れども、此所の為体は、唐船出入す可きの海浦に非ざるの間、浮べ出すこと能はず、仍つて還御、彼船は徒に砂頭に朽ち損ずと云々...
太宰治 「右大臣実朝」
...尾崎行雄の四氏旧に仍て意気軒昂たるあり...
鳥谷部春汀 「明治人物月旦(抄)」
...偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃今日爪牙誰敢敵 當時聲跡共相高我爲異物蓬茅下 君已乘氣勢豪此夕溪山對明月 不成長嘯但成時に...
中島敦 「山月記」
...吾妻鏡は惟り曲筆の少からざるのみならず更に他の理由よりして官府の日記にあらざることを證し得べし、理由の第一は、其體裁格例の一定せざる事これなり、官府の日記とは官府に奉仕するもの其職務上記注する所の日記に外ならずして、其記注の方法に至りては自一定の格例あるを常とす、繁簡は素より事實に從ひて異るべきものなれば、之を一樣ならしむること能はざれども、若既に一事件を記載したりとせば同種類の事件再出來する時は、特別なる事情あるにあらざるよりは、必ずこれを記すべきは至當の事にして、其繁簡の度も一樣なるべき筈なり、吾妻鏡中文治以前の小説的記事多き部分は今之を措き、其他の部分に就きて之を見るも體裁の不揃なること驚くに堪へたり、年處を經るに從ひて浩瀚の書の殘闕を生ずるは自然の事なれば、吾妻鏡の同一運命に遭遇せること素より怪むに足らざれども、一ヶ月以上の連續せる脱漏あるにあらずして、然かも一ヶ年中僅かに四五日の記事あるもの多きに至りては、余はこれを以て單に散佚の結果ありと信ずること能はざるなり、此の如きは正治建仁の際に於て殊に甚しきを見るなり、今左に正治三年より建仁三年まで吾妻鏡に見ゆる日數を示すべし正治三年(建仁元年)正月、三日、 二月、四日、 三月、五日、 四月、三日、五月、四日、 六月、四日、 七月、二日、 八月、三日、九月、九日、 十月、七日、十一月、二日、十二月、五日、合計 五十一日建仁二年正月 四日、 二月 四日、 三月 六日、 四月 三日、五月 八日、 六月 七日、 七月 六日、 八月 六日、九月 五日、 十月 十日、十一月 八日、十二月 八日、合計 八十五日三ヶ年一千有餘日の中に就きて日記に上ぼれるもの僅々百九十日に過きず、如何に平穩無事なりとても、餘りに簡略に過ぐるなり、蹴鞠和歌の諸會のみならず天體の日常の變化其他鎌倉市中の些事に至るまで輯録するを厭はざる吾妻鏡としては、余は是等過度の簡略に關して日記として正當なる辯解を有せざるなり、殊に建仁元年四五月の交は越後に城資盛の叛ありて鎌倉よりは討手として佐々木盛綱を遣はせるなど、中々の騷動なりしに、當時の記事の寂莫此の如し、これ豈格例ある官府の日記の資格を具備するとのならむや又建長二年十二月廿九日の條に所謂新造閑院殿遷幸之時、瀧口衆事自關東可被催進之旨、所被仰下也、仍日來有沙汰、任寛喜二年閏正月之例、各可進子息由、召仰可然之氏族等、但彼時人數記不分明之間、被尋出所給御教書、就其跡等、今日被仰付之處云々是によりて見れば瀧口に關する寛喜二年の古例の記録は官府に存せざりしや明なり、然るに吾妻鏡寛喜二年閏正月廿六日の條に瀧口無人之間、仰經歴輩之子孫、可差進之旨、被下院宣已訖・仍日來有其沙汰、小山下河邊千葉秩父三浦鎌倉宇都宮氏家伊東波多野、此家々可進子息一人之旨、今日被仰下其状云云若寛喜の此記事にして官府の日記なりとせば、建長二年に於て各家に賜へる御教書に就きて古例を尋ぬるの要なかるべし、而して建長二年の條には人數不分明とあれば、寛喜の記事は官府の日記にあらざること照々たり...
原勝郎 「吾妻鏡の性質及其史料としての價値」
...これぢや仍且(やつぱり)家(うち)で睨合(にらみあひ)をしてゐるしかないな...
三島霜川 「青い顏」
...仍且(やツぱり)駄目(だめ)だ...
三島霜川 「平民の娘」
...筆硯仍慚立策遅」を以て起してある...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...仍而(よつて)思ひ候に...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...仍(よっ)てこの日をもって爾後(じご)毎年の新嘗祭日にしようという御沙汰書(ごさたしょ)が残っている...
柳田国男 「海上の道」
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