...即ち嘉永(かえい)万延(まんえん)以来あまり進歩してはゐないらしい...
芥川龍之介 「日本の女」
...万延元年の生れというは大学に入る時の年齢が足りないために戸籍を作り更(か)えたので実は文久二年であるそうだ...
内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
...璃寛が万延元年道頓堀筑後の芝居で...
薄田泣菫 「茶話」
...三年は安政三年の大暴風――八歳の時は万延元年で...
高村光雲 「幕末維新懐古談」
...○万延元年、安藤対馬守老中となる...
徳富蘇峰 「吉田松陰」
...これは万延元年に前年からの工事が落成したもので...
内藤鳴雪 「鳴雪自叙伝」
...万延元年の変では...
野村胡堂 「江戸の昔を偲ぶ」
...十二歳から十四歳まで(万延元年―文久二年)二本松(にほんまつ)の商家に見習にやられ...
服部之総 「加波山」
...咸臨丸はその時(万延(まんえん)元年正月...
服部之総 「咸臨丸その他」
...万延・文久度(ど)のほうはいたる行動期となって...
服部之総 「志士と経済」
...両人の死後、万延、文久の行動期を迎えて、松門遺弟は全力を挙げ活躍するが――『リセランド窮理書』を資金五両に替えて不如意を嘆じた玄瑞などもやがて脱藩の要もなく藩論を握り、祇園(ぎおん)町に美声と智謀を謳われる身分となるのは、一面前出宍戸九郎兵衛、周布政之助(すふまさのすけ)、桂小五郎(かつらこごろう)といった一連の近代的政策力をもつ建設派新官僚の支持によるが、他面――むしろ決定的に――全国「草莽(そうもう)義徒」の組織された圧力を代表することができたからである...
服部之総 「志士と経済」
...万延以来、鹿児島の町人で郷士是枝柳右衛門(これえだりゅうえもん)を通じて薩州その他九州の尊攘派と連絡がついているので、中山忠愛(ただなる)卿の教旨を持たせて清河らを肥後(ひご)に送った...
服部之総 「新撰組」
...その三百十万延元年は蘭軒歿後第三十一年である...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...万延元年幕府に召され...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...万延元年に七十六に満たぬことは明白である...
森鴎外 「渋江抽斎」
...井伊大老が殺された万延元年に生まれたが...
柳田国男 「故郷七十年」
...しかし万延年間養父が七つくらいのとき失敗して...
柳田国男 「故郷七十年」
...万延(まんえん)元年のこの日は...
吉川英治 「旗岡巡査」
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