...余は余の無学無智なるを知る、また大監督神学博士の声名決して軽(かろん)ずべからざるを知る、しかれども余の無学なるが故に余は余の身も信仰も働(はたらき)もこれら高名の人の手に任(まか)すとならば余はいまだ自己を支配する能(あた)わざるものなり、余にして是(これ)と彼とを分別するの力なきならば余は誰によりて身を処せんや、見よ彼ら余の不遜を責むるものも相互(あいたがい)に説を異(こと)にするにあらずや、監督教会は自己の教会を称して The Church(惟一の教会)といい、一方には羅馬(ろま)教会の擅行(せんこう)を批難しながら他方には他の新教徒に附するに Dissenters(分離者)とか Nonconformists(不合者)とかの聞き悪(にく)き名称を以てするにあらずや、余は組合派の教師が余が最も信任するメソヂスト派の教師を罵詈するを耳にせり、ユニテリアンはオルソドックスの迷信を笑い、後者は前者の不遜異端を責むるにあらずや、その他長老派の固執(こしつ)なる、浸礼派の独尊なる、或は「クリスチャン」派とか、新エルサレム派とか、ブラダレン派とか、おのおのその特種の教義を揚言し、自派を賞賛して他派を蔑視するにあらずや、博識才能あるもの何ぞ一派の特有物ならんや、余にして自己の信仰を定むる能(あた)わざれば余は果して何(いず)れの派に己を投ずべきか、カルヂナル、マニングが天主教会の高僧なりしが故に余は法王の命に従うべきか、監督ヒーバー、ヂーン、スタンレーが英国監督派なりしが故に余は監督教会に属すべきか、ジャドソンが浸礼教会の人なりしが故に余は「バプチスト」たるべきか、リビングストンが長老教会の人なりしが故に余もまた彼と教派を同うすべきか、もし人物を以て余の教会上の位置を定むべしとなれば余はユニテリアンたるべきなり、何となれば余の最も尊敬するチャニング、ガリソン、ローエルのごときはユニテリアン教に属したればなり、余はクエークルたるべきなり、何となればジョージ、フクス、ウイリヤム、ペン、スチーベン、クレレット、ウイスター、モリスの輩(はい)は友会派(ゆうかいは)の人たりしなればなり、余は普通基督教徒が目(もく)して論ずるに足らざるものと見做す小教派の中にも靄然(あいぜん)たる君子、貞淑の貴婦人を目撃したり、悪魔よ汝の説教を休(や)めよ、もし余にして善悪を区別し、之を撰び彼を捨つるの力を有せざれば、余は他人の奴隷となるべきものなり、心霊の貴重なるはその自立の性にあり、我最(い)と小(ちいさ)きものといえどもいやしくも全能者と直接の交通を為し得べきものなり、神は法王監督牧師神学者輩の手を経ずして直接に余を教え賜うなり...
内村鑑三 「基督信徒のなぐさめ」
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