例文・使い方一覧でみる「象山」の意味


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...象山先生の学問に輪をかけたような偉い学問ができる...   象山先生の学問に輪をかけたような偉い学問ができるの読み方
有島武郎 「星座」

...勝海舟翁、佐久間象山と旧交あり、象山は松陰の師、而(しこう)して余また海舟翁の門下に教を受く、故に翁の題言を請うて、これを篇首に掲ぐ、また因縁なくんばあらず...   勝海舟翁、佐久間象山と旧交あり、象山は松陰の師、而して余また海舟翁の門下に教を受く、故に翁の題言を請うて、これを篇首に掲ぐ、また因縁なくんばあらずの読み方
徳富蘇峰 「吉田松陰」

...天保十三年壬寅(じんいん)佐久間象山海防八策を上(たてまつ)る...   天保十三年壬寅佐久間象山海防八策を上るの読み方
徳富蘇峰 「吉田松陰」

...佐久間象山の家において...   佐久間象山の家においての読み方
徳富蘇峰 「吉田松陰」

...固より象山啓発の力...   固より象山啓発の力の読み方
徳富蘇峰 「吉田松陰」

...象山また善視し、常に励まして曰く、「士は過(あやまち)なきを貴しとせず、過を改むるを貴しと為す...   象山また善視し、常に励まして曰く、「士は過なきを貴しとせず、過を改むるを貴しと為すの読み方
徳富蘇峰 「吉田松陰」

...彼は実に象山よりして天下の士たる抱負を伝授したるなり...   彼は実に象山よりして天下の士たる抱負を伝授したるなりの読み方
徳富蘇峰 「吉田松陰」

...ただ象山あるのみ...   ただ象山あるのみの読み方
徳富蘇峰 「吉田松陰」

...伝えて象山に到る...   伝えて象山に到るの読み方
徳富蘇峰 「吉田松陰」

...はじめ佐久間象山に謁見(えっけん)した逸話がある...   はじめ佐久間象山に謁見した逸話があるの読み方
中里介山 「大菩薩峠」

...当時の佐久間象山は...   当時の佐久間象山はの読み方
中里介山 「大菩薩峠」

...佐久間象山が、京都の三条通木屋町で、肥後の川上彦斎(げんさい)ともう一人の刺客に襲われた時、象山は馬上で、彦斎は徒歩(かち)であったから、斬るには斬ったが、傷は至って浅かったから、象山はそのまま馬の腹を蹴って逃げ出したのを、ついていた馬丁(べっとう)が馬の心を知らない――単に馬が狂い出したものと見て、走りかかる馬のゆくてに、大手を拡げてたち塞がったものだから、馬が棒立ちになったのを、追いすがった刺客が、おどり上って、思う存分に象山を斬ってしまった...   佐久間象山が、京都の三条通木屋町で、肥後の川上彦斎ともう一人の刺客に襲われた時、象山は馬上で、彦斎は徒歩であったから、斬るには斬ったが、傷は至って浅かったから、象山はそのまま馬の腹を蹴って逃げ出したのを、ついていた馬丁が馬の心を知らない――単に馬が狂い出したものと見て、走りかかる馬のゆくてに、大手を拡げてたち塞がったものだから、馬が棒立ちになったのを、追いすがった刺客が、おどり上って、思う存分に象山を斬ってしまったの読み方
中里介山 「大菩薩峠」

...アリストテレースの後西洋の哲學史上には新プラトーン學派と云ふものがある、是れは耶蘇教の神學に對して大變大切なものであるが、詳しいことは話が餘り六ヶしなるから略しますが、此新プラトーン學派なるものも、段々其の思想の由來を尋ねると、印度思想を繼承して居るものであるといふことが判つて來た、此の新プラトーン學派では、矢張り肉體を牢屋に比較して心を光明若しくは鏡に例へて居り、肉體を離れてしまはなければ到底解脱は出來ないといふことを唱へて居るのである、のみならず此の學派に於ては行をやつて居る、行といふのは坐り込んで沈思默考することである、吾々の眼や耳や其の他外感より入り來る智識を捨て去つて、感覺的世界を離れ世の眞理を考へ悟るには、唯沈思默考するより外に方法はないと説いて居る、是れが丁度印度の行といふものと同じことである、是等の説も印度から段々傳はつて來たものであらうと考へられる、尚紀元後二三世紀頃に顯はれた耶蘇教のグノスチチスムスといふ説に於ても是れと同じである、若し然うであるとすれば、耶蘇教の神學なるものも、間接に印度の思想が這入つて居るものであると言ふことが出來る、斯ういふ例は尚澤山あるのでありますが、餘り長くなるからモー一つ最近に於てのお話を一言して置きませう、諸君もお聞きになつたことでありませうが、近代獨逸に於て有名なる厭世的哲學者シヨペンハワーと云ふ人は、現世を以て苦痛と觀じ、何うかして此の苦痛の世の中を脱却しなければ到底解脱は出來ないといふことを説き、而して最後に隱遁を以て是れが最好方便となした、此の人も矢張り印度の哲學を土臺として居る、印度には佛以前に於て既に立派な哲學があつて、是をウパニシヤツドと云ひました、今から二千五六百年も以前に出來て居る、而して此の哲學書は千六百五十六年に波斯譯になつて居る、是れが千八百年の初め、佛蘭西のアンクチル、ヂユペロンと云ふ人によつて羅甸語に譯された、此の飜譯は歐羅巴の學者の間に非常に持囃され、彼のシヨペンハワーも亦其の愛讀者の一人で、彼は是れを見て世界に於て最も價値あり、又最も高尚なる教であり、是れに依つて我生を慰むる事をも出來れば、又我が死を慰むることも出來ると稱讃したのである、して見ると近代哲學に至る迄印度の思想は著しい影響を與へて居るといはなければならぬ、支那に於ける佛教の影響に至つては更に著しいものがある、支那宋時代の哲學は殆んど佛教の基礎の上に成立つて居るといつても差支ないのである(勿論佛教學者は別として)、唐代に於ても夫の韓退之は佛教嫌ひであつたが、韓退之の弟子に李といふ人があつた、この人は嘗て藥山に上つて禪學を修めたものであるから、其の性説などは殆ど佛教と同じである、けれども表向き佛教を尊ばず、佛教は取るべからざるものといつて居るが、支那人はいつも此の筆法で、裏面では如何に佛教に歸入して居つても、表面は何處迄も儒者として立たうと勉めて居る、宋代の有名なる學者は、必ず一度は佛門に入つて居る、だから佛教の思想の意識的若しくは無意識的に顯はれ來るのは當然である、而してこの佛教的思想は、支那哲學の上に於て非常に大切なものであつて、宋學が支那哲學史上に於て著しき發展を爲したのは全く之が爲である、夫の陸象山、王陽明の如きに至つては、既に明かに悟道を標榜して居るのであります、而して是等の説が日本に傳はつて、朱子學派であるとか王陽明學派であるとかいふやうに、今日に至る迄尚研究されて居る、だから支那(又日本)に於て、印度思想が如何に大なる影響を與へたものであるかは、何人も容易に想像し得らるる所であつて、之れがなかつたならば少くとも宋代以後の哲學は殆ど出來なかつたでもあらう...   アリストテレースの後西洋の哲學史上には新プラトーン學派と云ふものがある、是れは耶蘇教の神學に對して大變大切なものであるが、詳しいことは話が餘り六ヶしなるから略しますが、此新プラトーン學派なるものも、段々其の思想の由來を尋ねると、印度思想を繼承して居るものであるといふことが判つて來た、此の新プラトーン學派では、矢張り肉體を牢屋に比較して心を光明若しくは鏡に例へて居り、肉體を離れてしまはなければ到底解脱は出來ないといふことを唱へて居るのである、のみならず此の學派に於ては行をやつて居る、行といふのは坐り込んで沈思默考することである、吾々の眼や耳や其の他外感より入り來る智識を捨て去つて、感覺的世界を離れ世の眞理を考へ悟るには、唯沈思默考するより外に方法はないと説いて居る、是れが丁度印度の行といふものと同じことである、是等の説も印度から段々傳はつて來たものであらうと考へられる、尚紀元後二三世紀頃に顯はれた耶蘇教のグノスチチスムスといふ説に於ても是れと同じである、若し然うであるとすれば、耶蘇教の神學なるものも、間接に印度の思想が這入つて居るものであると言ふことが出來る、斯ういふ例は尚澤山あるのでありますが、餘り長くなるからモー一つ最近に於てのお話を一言して置きませう、諸君もお聞きになつたことでありませうが、近代獨逸に於て有名なる厭世的哲學者シヨペンハワーと云ふ人は、現世を以て苦痛と觀じ、何うかして此の苦痛の世の中を脱却しなければ到底解脱は出來ないといふことを説き、而して最後に隱遁を以て是れが最好方便となした、此の人も矢張り印度の哲學を土臺として居る、印度には佛以前に於て既に立派な哲學があつて、是をウパニシヤツドと云ひました、今から二千五六百年も以前に出來て居る、而して此の哲學書は千六百五十六年に波斯譯になつて居る、是れが千八百年の初め、佛蘭西のアンクチル、ヂユペロンと云ふ人によつて羅甸語に譯された、此の飜譯は歐羅巴の學者の間に非常に持囃され、彼のシヨペンハワーも亦其の愛讀者の一人で、彼は是れを見て世界に於て最も價値あり、又最も高尚なる教であり、是れに依つて我生を慰むる事をも出來れば、又我が死を慰むることも出來ると稱讃したのである、して見ると近代哲學に至る迄印度の思想は著しい影響を與へて居るといはなければならぬ、支那に於ける佛教の影響に至つては更に著しいものがある、支那宋時代の哲學は殆んど佛教の基礎の上に成立つて居るといつても差支ないのである、唐代に於ても夫の韓退之は佛教嫌ひであつたが、韓退之の弟子に李といふ人があつた、この人は嘗て藥山に上つて禪學を修めたものであるから、其の性説などは殆ど佛教と同じである、けれども表向き佛教を尊ばず、佛教は取るべからざるものといつて居るが、支那人はいつも此の筆法で、裏面では如何に佛教に歸入して居つても、表面は何處迄も儒者として立たうと勉めて居る、宋代の有名なる學者は、必ず一度は佛門に入つて居る、だから佛教の思想の意識的若しくは無意識的に顯はれ來るのは當然である、而してこの佛教的思想は、支那哲學の上に於て非常に大切なものであつて、宋學が支那哲學史上に於て著しき發展を爲したのは全く之が爲である、夫の陸象山、王陽明の如きに至つては、既に明かに悟道を標榜して居るのであります、而して是等の説が日本に傳はつて、朱子學派であるとか王陽明學派であるとかいふやうに、今日に至る迄尚研究されて居る、だから支那に於て、印度思想が如何に大なる影響を與へたものであるかは、何人も容易に想像し得らるる所であつて、之れがなかつたならば少くとも宋代以後の哲學は殆ど出來なかつたでもあらうの読み方
松本文三郎 「世界に於ける印度」

...象山先生の馬面(うまづら)が...   象山先生の馬面がの読み方
吉川英治 「脚」

...信州人の誇る象山のごとき...   信州人の誇る象山のごときの読み方
吉川英治 「折々の記」

...これも藩の佐久間象山が移植させたのだという林檎畑(りんごばたけ)がある...   これも藩の佐久間象山が移植させたのだという林檎畑があるの読み方
吉川英治 「銀河まつり」

...象山は、聞くと、『ほう、江戸へか...   象山は、聞くと、『ほう、江戸へかの読み方
吉川英治 「山浦清麿」

...その信念を以って鍛て』西洋学者といわれた象山の口からそう云われたのである...   その信念を以って鍛て』西洋学者といわれた象山の口からそう云われたのであるの読み方
吉川英治 「山浦清麿」

「象山」の読みかた

「象山」の書き方・書き順

いろんなフォントで「象山」


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垢抜けた   要具   山斗  

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