...日本(にほん)の昔(むかし)の物語(ものがたり)に豐玉姫(とよたまひめ)とあるのがつまりその御方(おかた)じゃ...
浅野和三郎 「霊界通信 小桜姫物語」
...往々自己の内容が全然そのいのちの中に開展する「世界」の充實と豐富とにかゝることを忘れる...
阿部次郎 「三太郎の日記 第一」
...北劍はお豐を縁がはに呼び寄せ...
岩野泡鳴 「泡鳴五部作」
...殆ど神託的に、その國家を、たとへば、豐太閤なり、伊藤公なり、また他の人なりに背負(しよ)はして立つことになる...
岩野泡鳴 「泡鳴五部作」
...豐平川(とよひらがは)に於ける心中――思へば變態心中だ――をやつて見た...
岩野泡鳴 「泡鳴五部作」
...豐國別(とよくにわけ)の王...
稗田の阿礼、太の安万侶 「古事記」
...穴門(あなと)の豐浦(とよら)の宮二また筑紫(つくし)の訶志比(かしひ)の宮三にましまして...
稗田の阿礼、太の安万侶 「古事記」
...豐沃の大地の上におりたちつ...
ホーマー Homer 土井晩翠訳 「イーリアス」
...多大の恩賞得るものぞ? 豐かの酬あるべきを...
ホーマー Homer 土井晩翠訳 「イーリアス」
...乘用車發表に際し豐田常務は左の如く語つた...
豊田喜一郎 「乘用車發表に際して」
...足利の末年から豐臣...
内藤湖南 「應仁の亂に就て」
...ひょっとすると「六花豐年の兆」というのも中國から傳った言葉かもしれない...
中谷宇吉郎 「雪を消す話」
...豐かに坐つた黒羽二重の膝も見えます...
野村胡堂 「錢形平次捕物控」
...懷中(ふところ)はあまり豐かでないが...
野村胡堂 「錢形平次捕物控」
...然らば數多き東國の間を、如何なる徑路を傳はつて、此等新佛教の傳道者が鎌倉に向つたかと云ふに、それは王朝以來の東に向ふ大通りを進んだもので、近江の野路、鏡の宿より美濃の垂井に出で、それより箕浦を經て、尾張の萱津、三河の矢作、豐川と傳はり、橋本、池田より遠州の懸河を通り、駿河の蒲原より木瀬川、酒勾にかゝりて鎌倉に著したのである、即ち今の鐵道線路と大なる隔りはない、日數は日足の長い時と短い時とで一樣には行かぬが、冬の日の短き時には將軍の上り下りなどには、十六七日を要し、春の季や夏の日の長い時なれば十二三日位で達し得たのである、個人の旅行は行列の旅行よりも一層輕便に出來る點から考ふれば、いま少し短期で達し得る樣なものであるが、宿驛に大凡定まりあるが故に甚しき差異はなかつたらしい、それは東關紀行などに照らしても明かである、阿佛尼の旅行には十一月に十四日を費した、最もこれは女の足弱であるから例にならぬかも知れぬ、伊勢路即海道記の著者が取つた道筋は、山坂も險阻であるのみならず日數を費すことも多かつたところから、普通の人は皆美濃路を擇んだものと見える、而して淨土僧禪僧も皆此美濃路に出でたが爲、伊賀伊勢志摩の三國は京都に近き國々でありながら、鎌倉時代を終るまで殆ど新宗教の波動を受けなかつたと云つて差支ないのである...
原勝郎 「鎌倉時代の布教と當時の交通」
...我帝室費は豐なるものと云ふ可らず...
福沢諭吉 「帝室論」
...それだけで十分に豐かであり...
ブロンテイ 十一谷義三郎訳 「ジエィン・エア」
...豐後の地藏寺の門前で死んだ尼の辭世に...
三田村鳶魚 「物貰ひの話」
便利!手書き漢字入力検索