...戸外で衆徒が拡声器でスピーチをしていた...
...彼は聴衆を引きつける話し方で、衆徒を虜にした...
...衆徒が賛成の声を上げた...
...衆徒の中には反対する人もいた...
...彼女は衆徒の中に紛れ込んで、演説に飛び入りした...
...広江寺は叡山の末寺なれば衆徒この事を洩(も)れ聞いて件(くだん)の鐘主の法師を搦(から)め日あらず湖に沈めたとある...
南方熊楠 「十二支考」
...北条氏が強権を執った頃、いちど敗れて一族離散したこともあったが、後にまた、本領を回復し、後醍醐(ごだいご)天皇が笠置山(かさぎやま)に行幸(みゆき)遊ばされて、官軍を召し募(つの)られた折には、柳生一族からも、中之坊という勤皇僧が出て、笠置衆徒に列し、正成(まさしげ)の帷幕(いばく)に参じ、建武の復古によく働いた...
吉川英治 「剣の四君子」
...一山の衆徒をひきい...
吉川英治 「私本太平記」
...根来(ねごろ)の衆徒をひきいれ...
吉川英治 「私本太平記」
...衆徒の輿論もふんぷんのなかに築かれたものだけに...
吉川英治 「私本太平記」
...反大塔ノ宮の衆徒をかたらい...
吉川英治 「私本太平記」
...主上はすでに大宮の彼岸所(ひがんしよ)に御座(ぎよざ)あれど未(いま)だ参(さん)ずる大衆一人もなしさては衆徒も心を変じぬるや……と...
吉川英治 「私本太平記」
...しかも麾下(きか)には、万余の新軍勢を加え、山門の衆徒三千、さらに園城寺(おんじょうじ)の大衆までをかぞえてみると、義貞すらが、「まだ、かくも、余力はあったのか」と、その大兵力に、自信をとりもどしたほどであり、四明(しみょう)の嶺(みね)、大岳、西坂本、ひがし坂本、要路要路、目に入るかぎりはすべて自陣の旗だった...
吉川英治 「私本太平記」
...朝倉に山門の衆徒(しゅうと)も加わり...
吉川英治 「新書太閤記」
...万を数える師弟骨肉を殺戮(さつりく)された衆徒や有縁(うえん)の者どもが...
吉川英治 「新書太閤記」
...早くも、根来の衆徒は、諜報(ちょうほう)にこぞり立って、泉州(せんしゅう)岸和田(きしわだ)附近から、千石堀(せんごくぼり)、積善寺(しゃくぜんじ)、浜城(はましろ)などにわたって、砦(とりで)を構え、「いざ来い、一戦」と、防禦をかため、四国の長曾我部(ちょうそかべ)、瀬戸内(せとうち)の海賊たちに、(変あり、われを援(たす)け、大坂を突かれよ)と、あらゆる反秀吉へ向って、檄(げき)を飛ばした...
吉川英治 「新書太閤記」
...根来衆徒だけにあるのでなく...
吉川英治 「新書太閤記」
...奈良の興福寺の衆徒と、その衆徒が、当代の生き仏と仰いでいる、笠置(かさぎ)の解脱上人(げだつしょうにん)とであった...
吉川英治 「親鸞」
...今の平家に対してすら、山の衆徒は、決して腹まで服従はしていないのである...
吉川英治 「源頼朝」
...丁度この頃には叡山の衆徒が京都の治安を司る松永久秀に対して三カ条の要求を提出していたが...
和辻哲郎 「鎖国」
...京都では叡山の衆徒が浅井朝倉の軍を助けて信長の京都把握を危殆(きたい)に陥れた...
和辻哲郎 「鎖国」
...かくて山門の衆徒は栄西を訴え...
和辻哲郎 「日本精神史研究」
...彼の時代は南都北嶺の衆徒が放火殺人を事とする時代である...
和辻哲郎 「日本精神史研究」
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