...戸外で衆徒が拡声器でスピーチをしていた...
...彼は聴衆を引きつける話し方で、衆徒を虜にした...
...衆徒が賛成の声を上げた...
...衆徒の中には反対する人もいた...
...彼女は衆徒の中に紛れ込んで、演説に飛び入りした...
...此の時(承久元年八月五日)三千の衆徒が大秘伝法の絶滅を悲しみ山を下ろうとしたのを...
谷崎潤一郎 「覚海上人天狗になる事」
...その他山門の衆徒をはじめ...
中里介山 「法然行伝」
...南都北嶺の衆徒の中から念仏を阻止妨害しようとの運動が起って来た...
中里介山 「法然行伝」
......
正岡子規 「俳人蕪村」
...いわく、(延元元年正月、官軍三井寺(みいでら)攻めに)前々(せんぜん)炎上の時は、寺門の衆徒、これを一大事にして隠しける九乳(きゆうにゆう)の鳧鐘(ふしよう)も、取る人なければ、空しく焼けて地に落ちたり、この鐘と申すは、昔竜宮城より伝はりたる鐘なり、その故は承平の頃俵藤太秀郷(ひでさと)といふ者ありけり、ある時この秀郷、たゞ一人勢多(せた)の橋を渡りけるに、長(たけ)二十丈ばかりなる大蛇、橋の上に横たはつて伏したり、両の眼は輝いて、天に二つの日を掛けたるがごとし、双(なら)べる角(つの)の尖(するど)にして、冬枯れの森の梢(こずえ)に異ならず、鉄(くろがね)の牙上下に生(お)ひ差(ちご)ふて、紅の舌炎(ほのお)を吐くかと怪しまる、もし尋常(よのつね)の人これを見ば、目もくれ魂消えて、すなはち地にも倒れつべし、されども秀郷、天下第一の大剛の者なりければ、更に一念も動ぜずして、彼(かの)大蛇の背(せなか)の上を、荒らかに踏みて、閑(しずか)に上をぞ越えたりける、しかれども大蛇もあへて驚かず、秀郷も後を顧みずして、遥(はる)かに行き隔たりける処に、怪しげなる小男一人、忽然(こつぜん)として秀郷が前に来(きたつ)ていひけるは、我この橋の下に住む事すでに二千余年なり、貴賤往来の人を量り見るに、今御辺(ごへん)ほどに剛なる人いまだ見ず、我に年来(としごろ)地を争ふ敵あつて、動(やや)もすれば彼がために悩まさる、しかるべくは御辺、我敵を討つてたび候へと懇(ねんごろ)に語(かたら)ひけれ、秀郷一義もいはず、子細あるまじと領状して、すなはちこの男を前(さき)に立て、また勢多の方へぞ帰りける、二人共に湖水の波を分けて水中に入る事五十余町あつて、一の楼門あり、開いて内へ入るに、瑠璃(るり)の沙(いさご)厚く、玉の甃(いしだたみ)暖かにして、落花自ずから繽紛(ひんぷん)たり、朱楼紫殿玉の欄干金(こがね)を鐺(こじり)にし銀(しろがね)を柱とせり、その壮観奇麗いまだかつて目にも見ず、耳にも聞かざりしところなり...
南方熊楠 「十二支考」
...広江寺は叡山の末寺なれば衆徒この事を洩(も)れ聞いて件(くだん)の鐘主の法師を搦(から)め日あらず湖に沈めたとある...
南方熊楠 「十二支考」
...さまで華々しからぬ峰の衆徒との交渉のために...
柳田国男 「雪国の春」
...衆徒と応対して危く馬脚を露わそうとしているが...
柳田国男 「雪国の春」
...三井寺衆徒のうちには...
吉川英治 「私本太平記」
...衆徒らは、四散し、かれらが待っていた呼応の武門も、援けに来るいとまもなかった...
吉川英治 「新書太閤記」
...根来衆徒だけにあるのでなく...
吉川英治 「新書太閤記」
...奈良の興福寺の衆徒と、その衆徒が、当代の生き仏と仰いでいる、笠置(かさぎ)の解脱上人(げだつしょうにん)とであった...
吉川英治 「親鸞」
...今の平家に対してすら、山の衆徒は、決して腹まで服従はしていないのである...
吉川英治 「源頼朝」
...丁度この頃には叡山の衆徒が京都の治安を司る松永久秀に対して三カ条の要求を提出していたが...
和辻哲郎 「鎖国」
...京都では叡山の衆徒が浅井朝倉の軍を助けて信長の京都把握を危殆(きたい)に陥れた...
和辻哲郎 「鎖国」
...たとい衆徒の堕落が眼にあまるほどであったとしても...
和辻哲郎 「鎖国」
...叡山の衆徒だけでは到底信長の軍を防ぎ得るものではない...
和辻哲郎 「鎖国」
...かくて山門の衆徒は栄西を訴え...
和辻哲郎 「日本精神史研究」
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