...矢作から西矢作の松原へかかった時分に...
中里介山 「大菩薩峠」
...槍の名手と評判があった、矢作治部太夫は、今日は寒さがちと酷(きび)しいので、城中から下がってくると直ぐ、好きな酒をちびちびと飲みはじめた...
長谷川伸 「討たせてやらぬ敵討」
...「は、矢作殿、――御家はこの後どうなりましょう」「どう、どうなるとは何事だのう」「主水一類を誅し終って二年になります」「おお二年になる」「御家は安泰でござりましょうか」「はて、何故事新しげにそのようなことを尋ねるのじゃのう、会津四十万石、大盤石の如く御当家は千代八千代じゃ」「それは浅見(せんけん)じゃ、やがて御当家は御取潰(とりつぶ)し、これは免れぬ御運じゃ」「不祥(ふしょう)なことをいうな、口を慎め、――いらぬことをいう男じゃ」「主水一類と四十万石引換えにと、式部少輔殿が申された、その始末がやがてつけられましょう」「口を慎め、主君を式部少輔殿とは何事じゃ」「二年の後か三年の後か、加藤家御取潰しはとにかくに近年のうちにありましょう」「こ奴(いつ)、乱心したな」「治部太夫殿、お互いに浪々の身と、不運は目前に迫っている...
長谷川伸 「討たせてやらぬ敵討」
...然らば數多き東國の間を、如何なる徑路を傳はつて、此等新佛教の傳道者が鎌倉に向つたかと云ふに、それは王朝以來の東に向ふ大通りを進んだもので、近江の野路、鏡の宿より美濃の垂井に出で、それより箕浦を經て、尾張の萱津、三河の矢作、豐川と傳はり、橋本、池田より遠州の懸河を通り、駿河の蒲原より木瀬川、酒勾にかゝりて鎌倉に著したのである、即ち今の鐵道線路と大なる隔りはない、日數は日足の長い時と短い時とで一樣には行かぬが、冬の日の短き時には將軍の上り下りなどには、十六七日を要し、春の季や夏の日の長い時なれば十二三日位で達し得たのである、個人の旅行は行列の旅行よりも一層輕便に出來る點から考ふれば、いま少し短期で達し得る樣なものであるが、宿驛に大凡定まりあるが故に甚しき差異はなかつたらしい、それは東關紀行などに照らしても明かである、阿佛尼の旅行には十一月に十四日を費した、最もこれは女の足弱であるから例にならぬかも知れぬ、伊勢路即海道記の著者が取つた道筋は、山坂も險阻であるのみならず日數を費すことも多かつたところから、普通の人は皆美濃路を擇んだものと見える、而して淨土僧禪僧も皆此美濃路に出でたが爲、伊賀伊勢志摩の三國は京都に近き國々でありながら、鎌倉時代を終るまで殆ど新宗教の波動を受けなかつたと云つて差支ないのである...
原勝郎 「鎌倉時代の布教と當時の交通」
...矢作(やはぎ)ノ陣(じん)長いあいだ...
吉川英治 「私本太平記」
...そして三河の矢作川(やはぎがわ)のほとり矢作ノ宿(しゅく)についたのは...
吉川英治 「私本太平記」
...すべてここの矢作(やはぎ)にあつめ...
吉川英治 「私本太平記」
...矢作の上流二里ほどな額田郡(ぬかだごおり)細川村へ使いにやった...
吉川英治 「私本太平記」
...全軍は矢作(やはぎ)の宿で令を待ちかまえていたが...
吉川英治 「私本太平記」
...矢作川(やはぎがわ)の橋口の兵から...
吉川英治 「私本太平記」
...矢作(やはぎ)の御宿所に入られました」と...
吉川英治 「私本太平記」
...矢作(やはぎ)の出来事も...
吉川英治 「私本太平記」
...ここでいっておくがの」「なにをです」「矢作(やはぎ)でやったような...
吉川英治 「私本太平記」
...矢作(やはぎ)における使者鏖殺(おうさつ)の件を...
吉川英治 「私本太平記」
...矢作(やはぎ)ノ宿にて...
吉川英治 「私本太平記」
...「――矢作(やはぎ)の件を...
吉川英治 「私本太平記」
...うかと野望に立ち上がッたものの矢作(やはぎ)の破綻(はたん)からここまで来て立ち往生のほかなく...
吉川英治 「私本太平記」
...矢作(やはぎ)の柳堂で...
吉川英治 「私本太平記」
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