...三年後の建保元年癸酉のとしに...
太宰治 「右大臣実朝」
...三日、癸卯、小雨灑ぐ、義盛粮道を絶たれ、乗馬に疲るるの処、寅剋、横山馬允時兼、波多野三郎、横山五郎以下数十人の親昵従類等を引率し、腰越浦に馳せ来るの処、既に合戦の最中なり、仍つて其党類皆蓑笠を彼所に棄つ、積りて山を成すと云々、然る後、義盛の陣に加はる、義盛時兼の合力を待ち、新羈の馬に当るべし、彼是の軍兵三千騎、尚御家人等を追奔す、義盛重ねて御所を襲はんと擬す、然れども若宮大路は、匠作、武州防戦し給ひ、町大路は、上総三郎義氏、名越は、近江守頼茂、大倉は、佐々木五郎義清、結城左衛門尉朝光等、各陣を張るの間、通らんと擬するに拠無し、仍つて由比浦並びに若宮大路に於て、合戦時を移す、凡そ昨日より此昼に至るまで、攻戦已まず、軍士等各兵略を尽すと云々、酉剋、和田四郎左衛門尉義直、伊具馬太郎盛重の為に討取らる、父義盛殊に歎息す、年来義直を鍾愛せしむるに依り、義直に禄を願ふ所なり、今に於ては、合戦に励むも益無しと云々、声を揚げて悲哭し、東西に迷惑し、遂に江戸左衛門尉能範の所従に討たると云々、同男五郎兵衛尉義重、六郎兵衛尉義信、七郎秀盛以下の張本七人、共に誅に伏す、朝夷名三郎義秀、並びに数率等海浜に出で、船に掉して安房国に赴く、其勢五百騎、船六艘と云々、又新左衛門尉常盛、山内先次郎左衛門尉、岡崎余一左衛門尉、横山馬允、古郡左衛門尉、和田新兵衛入道、以上大将軍六人、戦場を遁れて逐電すと云々、此輩悉く敗北するの間、世上無為に属す、其後、相州、行親、忠家を以て死骸等を実検せらる、仮屋を由比浦の汀に構へ、義盛以下の首を取聚む、昏黒に及ぶの間、各松明を取る、又相州、大官令仰を承り、飛脚を発せられ、御書を京都に遣はす...
太宰治 「右大臣実朝」
...十五日、癸丑、晴、鶴岳放生会、将軍家御参宮、供奉人の行粧、花美例に越ゆ、檳榔の御車を用ゐらる...
太宰治 「右大臣実朝」
...その半(なかば)は癸亥(きがい)の歳(とし)の災禍に烏有(うゆう)となりぬ...
永井荷風 「礫川※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33]※[#「彳+羊」、第3水準1-84-32]記」
...癸丑(みずのとうし)の年になった...
久生十蘭 「鈴木主水」
...剣術の全盛兎(と)に角(かく)に癸亥(みづのとい)の前後と云うものは...
福澤諭吉 「福翁自伝」
...私の記憶にして誤りなくんば大正癸亥大震の前年あたり...
正岡容 「異版 浅草燈籠」
...」試に癸酉から九十三年溯つて見ると隋の開皇元年辛丑となるらしい...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...「癸未元日...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...その百三十四屋代弘賢(ひろかた)は此年癸未の武鑑に「奥祐筆所詰...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...実文政癸未八月十七日...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...わたくしは唯山陽の「歳癸酉...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...後者の癸未以後の詩に徴して知られる...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...享和三年癸亥ではなく...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...文久癸亥三月十四日に至つた...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...既にして次年癸亥に至り...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...四年癸巳 平八郎四十一歳...
森鴎外 「大塩平八郎」
...八月中の癸亥(みずのとい)から三日間で...
柳田国男 「海上の道」
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