...康煕(こうき)年間の動乱に当って...
伊波普猷 「琉球史の趨勢」
...引きしめようと努めながらもやはり煕々(きき)とした顔つきで劇場へやって来ると...
ロマン・ローラン Romain Rolland 豊島与志雄訳 「ジャン・クリストフ」
...康煕年間古今圖書集成なりて一萬餘卷の大部の書となり...
内藤湖南 「文溯閣の四庫全書」
...是が康煕、雍正、乾隆頃になつて、此の二つの傾が又益明かになつて來て居る...
内藤湖南 「北派の書論」
...眼に映るは煕々(きき)たる前程のみである...
夏目漱石 「虞美人草」
...ピエール・ディオニスの解剖学をジェスイット僧のP・ペレニンに訳させて西洋の解剖学を導入する康煕帝(1662-1723)の試みは...
マクス・ノイバーガー Max Neuburger 水上茂樹訳 「医学の歴史」
...康煕帝自ら虎狩せしを見た西人の記には専ら槍手隊を使うたよう出で居る...
南方熊楠 「十二支考」
......
南方熊楠 「蓮の花開く音を聽く事」
...御台所(みだいどころ)は近衛経煕(このえけいき)の養女茂姫(しげひめ)である...
森鴎外 「渋江抽斎」
...駒場の原煕(はらひろし)博士に逢って聞くと...
柳田國男 「野草雑記・野鳥雑記」
...次男袁煕(えんき)もまた前後して...
吉川英治 「三国志」
...袁煕(えんき)の二子も...
吉川英治 「三国志」
...袁譚も……袁煕もおるか...
吉川英治 「三国志」
...袁煕、袁尚の二名は、その後、遼東へ奔って、太守公孫康(こうそんこう)の勢力をたのみ、またまた、禍いの兆(きざ)しが見えたからである...
吉川英治 「三国志」
...袁煕と、袁尚は、「さてはそろそろ出軍の相談かな? 何といっても曹操の脅威をうけている折だから、吾々の協力もなくてはかなうまい」などと談じ合いながら登城してきた...
吉川英治 「三国志」
...十余名の力者(りきしゃ)は一斉におどり出して、二人へ組みつき、左右から脾腹(ひばら)に短剣を加え、袁煕、袁尚ともども無造作に首にしてしまった...
吉川英治 「三国志」
...今に遼東から、袁煕、袁尚の首を送ってくるであろうから、それを待っているのだ」と、答えた...
吉川英治 「三国志」
...子の劉煕(りゅうき)に死骸を与えて厚く故郷へ葬らせた...
吉川英治 「三国志」
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