...平氏政権は、源氏との合戦(治承・寿永の戦い)により滅ぼされた...
...治承四年、長田入道が、惶懼、書を平忠清に飛ばして、東国将に事あらむとするを告げたるが如き、革命の曙光が、既に紅を東天に潮したるを表すものにあらずや...
芥川龍之介 「木曾義仲論(東京府立第三中学校学友会誌)」
...○治承四年十月二十三日 入道相国福原の新都を去り...
芥川龍之介 「木曾義仲論(東京府立第三中学校学友会誌)」
...治承(ぢしよう)の春の樂みに知る由もなく...
高山樗牛 「瀧口入道」
...思ひ出せば治承の春...
高山樗牛 「瀧口入道」
...その後寛治五年にも永長元年にも治承元年にもあって...
田中貢太郎 「日本天変地異記」
...治承(ちしょう)の昔文覚上人(もんがくしょうにん)が何処の馬の骨だか分らないされこうべを「義朝(よしとも)の髑髏(どくろ)」と称して右兵衛佐頼朝(うひょうえのすけよりとも)に示した故智に倣(なら)い...
谷崎潤一郎 「武州公秘話」
...治承(じしょう)四年の十月には...
中里介山 「大菩薩峠」
...治承四年の十二月二十八日...
中里介山 「法然行伝」
...星野博士は其治承四年ヨリ文永三年ニ至ルマテ凡八十七年間鎌倉幕府ノ日記ナリ編者ノ姓名傳ハラサルモ其幕府ノ吏人ナルハ疑ナシと云はれたれども余は寧ろ林道春の東鑑考に東鏡未詳撰...
原勝郎 「吾妻鏡の性質及其史料としての價値」
...この物語の本筋の事件の起きた治承元年になり...
久生十蘭 「無月物語」
...平家二十年の栄花もつかのま、重盛は逝き、相国清盛もようやく老い、福原開港の業成って、日宋交流の途が開かれたよろこびも、一面、不遇の源氏党や、飢餓疫病の年々に苦しむ衆民のよろこびとはならず、治承四年、以仁王を盟主とする源三位頼政らの宇治川合戦を口火として、平家を討たんの声は、澎湃(ほうはい)として、諸国三道の合言葉となった...
吉川英治 「随筆 新平家」
...義仲のなした治承...
吉川英治 「随筆 新平家」
...もともと、平家ぎらいだが、院の後白河からも、あまり重用(ちょうよう)はされず、治承、寿永の乱世に、灸をすえたり、克明に日記をつけたりなどして、とにかく、あの風雲を泳ぎぬけたこの一人物なども、書けば、ひとつの主題になる...
吉川英治 「随筆 新平家」
...治承の飢饉が平家を弱めたことはひと通りでない...
吉川英治 「随筆 新平家」
...あの時代のままな四囲の山と水と、そしてこの建築との中にいれば、治承、寿永の世の一と隅(すみ)を感じとるには充分である...
吉川英治 「随筆 新平家」
...恋の旗一治承(じしょう)二年になった...
吉川英治 「源頼朝」
...「――治承(じしょう)四年八月十七日」衣服をまといながら彼は口のうちで云った...
吉川英治 「源頼朝」
...遠くは、治承の昔、源頼朝が、伊豆から渡って、関東の兵をあつめたのもこの河原...
吉川英治 「宮本武蔵」
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