...暹羅(シャム)人あり...
海野十三 「浮かぶ飛行島」
...通訓大夫慶暹(つうくんたゆうけいせん)...
森鴎外 「佐橋甚五郎」
...哈爾賓採木公司の深澤暹氏などと乗合せた...
與謝野寛・與謝野晶子 「満蒙遊記」
...李司馬の甥の李暹(りせん)という男は...
吉川英治 「三国志」
...一方――帝と皇后の御輦(みくるま)は、李暹(りせん)のために、李司馬の軍営へと、遮(しゃ)二無(む)二、曳きこまれて来たが、そこへお置きするのはさすがに不安なので李(りかく)、李暹の叔父甥は、相談のうえ、以前、董相国(とうしょうこく)の別荘でありまた、堅城でもある塢(びう)の城内へ、遷(うつ)し奉ることとした...
吉川英治 「三国志」
...李の甥に、李暹(りせん)、李別(りべつ)という者がある...
吉川英治 「三国志」
...韓暹は、今こそ禁門に仕えているが、元来、李楽などと共に、緑林(りょくりん)に党を結んでいた賊将の上がりなので、たちまち性根を現して、「貴公も、そう思うか」と、曹操に対して、同じ嫉視(しっし)の思いを、口汚く云いだした...
吉川英治 「三国志」
...――曹操は必ず、自分たち一族の勲功を第一にして、おれたちの存在などは認めないかも知れぬ」「いや、認めまいよ」楊奉は、韓暹に、なにやら耳打ちして、顔色をうかがった...
吉川英治 「三国志」
...韓暹の二人が引率して大梁(たいりょう)(河南省)の方面へさして行ったということがやっと分った...
吉川英治 「三国志」
...第六軍の将たる韓暹(かんせん)は...
吉川英治 「三国志」
...取次からそれを聞いた大将の韓暹(かんせん)である...
吉川英治 「三国志」
...共に合図をおとり召されては如何」「合図をとれとは?」韓暹は...
吉川英治 「三国志」
...第一軍張勲(ちょうくん)のうしろから、第七軍の楊奉(ようほう)、第六軍の韓暹が、火の手をあげて、味方へ討ってかかってきたのである...
吉川英治 「三国志」
...楊奉、韓暹の手勢は、その左右から扶けた...
吉川英治 「三国志」
...前線の味方を攪乱(かくらん)した韓暹(かんせん)...
吉川英治 「三国志」
...韓暹と楊奉のうち...
吉川英治 「三国志」
...いわんや堺、平戸(ひらど)そのほかの海港と、呂宋(ルソン)、安南、暹羅(シャム)、満剌加(マラッカ)、南支那一帯の諸港との往来は、年ごとに頻繁(ひんぱん)を加えて来るし、それが国民一般の宗教に、軍事に、直接生活に、濃く影響し始めてきた今となっては――その政治的重要性からも、信長が多大な関心をもっていたことは、当然すぎるほど当然なことだった...
吉川英治 「新書太閤記」
...ただ今、これで朝鮮まで行けるやとのお訊ねでございましたが、高麗(こうらい)、大明(だいみん)はおろか、安南(アンナン)、柬埔寨(カンボジヤ)、婆羅納(ブルネオ)、暹羅(シャム)、高砂(たかさご)、呂宋(ルソン)、爪哇(ジャバ)、満剌加(マラッカ)はいうに及ばず、遠くは奥南蛮(おくなんばん)から喜望峰(きぼうほう)の岬(みさき)をめぐり、大西洋へ出て、西班牙(スペイン)、葡萄牙(ポルトガル)、羅馬(ローマ)、どこへでも、行けば行けないところはございませぬ」「ふ……ウム」秀吉は、すこし鼻白んだ...
吉川英治 「新書太閤記」
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