...その建保元年あたりには...
太宰治 「右大臣実朝」
...建保四年丙子...
太宰治 「右大臣実朝」
...あくる建保二年のお正月には...
太宰治 「右大臣実朝」
...建保二年の五月から六月にかけての大旱魃の折には...
太宰治 「右大臣実朝」
...同じく建保四年の六月二十日には...
太宰治 「右大臣実朝」
...この人は建保四年の六月にひよつこり鎌倉へまゐりまして...
太宰治 「右大臣実朝」
...建保六年戊寅...
太宰治 「右大臣実朝」
...その翌年の建保五年六月に京都よりお帰りになり...
太宰治 「右大臣実朝」
...さうして、そのとしも、また翌年の建保六年も、将軍家の御驕奢はつのるばかり、和歌管絃の御宴は以前よりさらに頻繁になつたくらゐで、夜を徹しての御遊宴もめづらしくは無く、またその頃から鶴岳宮の行事やもろもろの御仏事に当つてさへ、ほとんど御謙虚の敬神崇仏の念をお忘れになつていらつしやるのではないかと疑はれるほど、その御儀式の外観のみをいたづらに華美に装ひ、結構を尽して盛大に取行はせられ、尼御台さまも、相州さまも入道さまも、いまは何事もおつしやらず、ことに尼御台さまに於いては、世上往々その専横を伝へられながらこの将軍家に対してだけはあまりそのやうな御形跡も見受けられず、まさかあの不埒な禅師さまの言ふやうに、将軍家をお生れになつた時からの白痴と思召されてゐたわけでもございますまいに、前将軍家左金吾禅室さまの御時やら、当将軍家御襲職の前後には、なかなか御活躍なさつたものでございましたさうで、また当将軍家があの恐しい不慮の御遭難に依つておなくなりになられたのち、ふたたび急にあらはに御政務にお口出しなさるやうになつて、尼将軍などと言はれるやうになつたのも、実にその頃からの事のやうでございますが、けれども、この将軍家の頃には、前にもちよつと申し上げましたやうにひたすら左金吾禅室さまの御遺児をお守りして優しい御祖母さまになり切つて居られたやうにさへ見受けられ、当将軍家御成人の後には御政務へ直接お口出しなさつた事などほとんど無く、この建保五、六年の将軍家の御奢侈をさへ厳しくおいさめ申したといふ噂を聞かず、かへつてその華美を尽した絢爛の御法要などに御台所さまと御一緒にお見えになつて、御機嫌も、うるはしい御模様に拝され、それは決して当将軍家の事を白痴だなどと申してあきらめていらつしやる故ではなく、心から御信頼あそばしていらつしやるからこそ、このやうな淡泊の御態度をお示しになる事も出来るのであらうと、私たちと致しましては、なんとしても、そのやうにしか思はれなかつたのでございました...
太宰治 「右大臣実朝」
...建保七年己卯...
太宰治 「右大臣実朝」
...この建保年間には...
田中貢太郎 「日本天変地異記」
...亦惟天丕建保乂有殷...
内藤湖南 「支那歴史的思想の起源」
...法然の三回忌の時には追善の為に(建保二年正月)この法印は...
中里介山 「法然行伝」
...順徳院の建保年間...
中里介山 「法然行伝」
...建保四年九月廿日の條實朝大江廣元の諫言に答へて源氏正統縮此時畢...
原勝郎 「吾妻鏡の性質及其史料としての價値」
...建保七年二月八日の條に去月廿七日戍尅供養之時...
原勝郎 「吾妻鏡の性質及其史料としての價値」
...封建保守の傾きのつよい当時の日本の作家の雰囲気の中には...
宮本百合子 「ある回想から」
...年代順に列記すれば、建保七年、弘安二年、正安四年(乾元元年)、元亨元年、元徳二年、文明五年、慶長五年の諸鈔本である...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
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