...延元三年、親房は宗良親王を奉じて東下せしに、颶風(つむじかぜ)に遭ひて、一行の船四散し、親房は常陸に漂着し、ひと先づ小田城に入る...
大町桂月 「秋の筑波山」
...三年は安政三年の大暴風――八歳の時は万延元年で...
高村光雲 「幕末維新懐古談」
...この昌造の工藝的な特徴は洋學年表も萬延元年の項に書いて「米魯初航以來...
徳永直 「光をかかぐる人々」
...「印刷文明史第四卷」は萬延元年か文久一...
徳永直 「光をかかぐる人々」
...「一夜明くれば、御正月――には、これあらで、いつなんめり、延元の元年、五月は二十と五日の日...
直木三十五 「南国太平記」
...万延元年二月中旬...
服部之総 「志士と経済」
...万延元年には従前のいかなる年の記録をも破り...
服部之総 「尊攘戦略史」
...延元三年には東海道を打登り...
原勝郎 「日本史上の奧州」
...夫(そ)れで万延元年の正月に出帆しようと云うその時...
福澤諭吉 「福翁自伝」
...例えば開国の初に、横浜で露西亜(ロシア)人の斬られたことなどは、唯(ただ)その事変に驚くばかりで自分の身には何とも思わざりしに、その後間もなく外人嫌いの精神は俄(にわか)に進歩して殺人(ひとごろし)の法が綿密になり、筋道(すじみち)が分(わか)り、区域が広くなり、之(これ)に加(くわ)うるに政治上の意味をも調合して、万延元年、井伊(いい)大老の事変後は世上何となく殺気を催(もよお)して、手塚律蔵(てづかりつぞう)、東条礼蔵(とうじょうれいぞう)は洋学者なるが故にとて長州人に襲撃せられ、塙二郎(はなわじろう)は国学者として不臣なりとて何者かに首を斬(き)られ、江戸市中の唐物屋は外国品を売買して国の損害するとて苦しめらるゝと云(い)うような風潮になって来ました...
福澤諭吉 「福翁自伝」
...寛延元年二月二日に菅波喜太郎(すがなみきたらう)として生れたからである...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...又第一頁(けつ)の欄外に「万延元庚申冬月一校了約之遅」と書してある...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...「万延元年庚申小春二十八夜三更燈下収筆...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...万延元年紀州藩に仕へた時は...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...万延元年庚申、十四歳...
森鴎外 「能久親王年譜」
...延元(えんげん)元年とも併称された...
吉川英治 「私本太平記」
...ずっと後の延元元年...
吉川英治 「随筆 新平家」
...延元(えんげん)の元年五月...
吉川英治 「日本名婦伝」
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