...璃寛が万延元年道頓堀筑後の芝居で...
薄田泣菫 「茶話」
...後醍醐(ごだいご)天皇の延元(えんげん)元年以来五十余年で廃絶(はいぜつ)したとなっているけれども...
谷崎潤一郎 「吉野葛」
...これは万延元年に前年からの工事が落成したもので...
内藤鳴雪 「鳴雪自叙伝」
...万延元年(この小説の時代より五六年前)幕府が...
中里介山 「大菩薩峠」
...万延元年の変では...
野村胡堂 「江戸の昔を偲ぶ」
...万延元年二月中旬...
服部之総 「志士と経済」
...真白くて五月桜の寂しきを延元陵に云へる僧かな昭和三年の晩春吉野に遊び後醍醐帝の延元陵に参られた時如意輪堂の僧でもあらうか...
平野萬里 「晶子鑑賞」
...欧羅巴各国に行く私が亜米利加(アメリカ)から帰(かえっ)たのは万延元年...
福澤諭吉 「福翁自伝」
...同書は万延元年の出版で...
穂積陳重 「法窓夜話」
...岡本博卿氏が万延元年にこの訳語を用いられたもので...
穂積陳重 「法窓夜話」
...いわく、(延元元年正月、官軍三井寺(みいでら)攻めに)前々(せんぜん)炎上の時は、寺門の衆徒、これを一大事にして隠しける九乳(きゆうにゆう)の鳧鐘(ふしよう)も、取る人なければ、空しく焼けて地に落ちたり、この鐘と申すは、昔竜宮城より伝はりたる鐘なり、その故は承平の頃俵藤太秀郷(ひでさと)といふ者ありけり、ある時この秀郷、たゞ一人勢多(せた)の橋を渡りけるに、長(たけ)二十丈ばかりなる大蛇、橋の上に横たはつて伏したり、両の眼は輝いて、天に二つの日を掛けたるがごとし、双(なら)べる角(つの)の尖(するど)にして、冬枯れの森の梢(こずえ)に異ならず、鉄(くろがね)の牙上下に生(お)ひ差(ちご)ふて、紅の舌炎(ほのお)を吐くかと怪しまる、もし尋常(よのつね)の人これを見ば、目もくれ魂消えて、すなはち地にも倒れつべし、されども秀郷、天下第一の大剛の者なりければ、更に一念も動ぜずして、彼(かの)大蛇の背(せなか)の上を、荒らかに踏みて、閑(しずか)に上をぞ越えたりける、しかれども大蛇もあへて驚かず、秀郷も後を顧みずして、遥(はる)かに行き隔たりける処に、怪しげなる小男一人、忽然(こつぜん)として秀郷が前に来(きたつ)ていひけるは、我この橋の下に住む事すでに二千余年なり、貴賤往来の人を量り見るに、今御辺(ごへん)ほどに剛なる人いまだ見ず、我に年来(としごろ)地を争ふ敵あつて、動(やや)もすれば彼がために悩まさる、しかるべくは御辺、我敵を討つてたび候へと懇(ねんごろ)に語(かたら)ひけれ、秀郷一義もいはず、子細あるまじと領状して、すなはちこの男を前(さき)に立て、また勢多の方へぞ帰りける、二人共に湖水の波を分けて水中に入る事五十余町あつて、一の楼門あり、開いて内へ入るに、瑠璃(るり)の沙(いさご)厚く、玉の甃(いしだたみ)暖かにして、落花自ずから繽紛(ひんぷん)たり、朱楼紫殿玉の欄干金(こがね)を鐺(こじり)にし銀(しろがね)を柱とせり、その壮観奇麗いまだかつて目にも見ず、耳にも聞かざりしところなり...
南方熊楠 「十二支考」
...寛延元年二月二日に菅波喜太郎(すがなみきたらう)として生れたからである...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...又第一頁(けつ)の欄外に「万延元庚申冬月一校了約之遅」と書してある...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...万延元年に七十六に満たぬことは明白である...
森鴎外 「渋江抽斎」
...延元(えんげん)元年とも併称された...
吉川英治 「私本太平記」
...明けて延元三年のこの一月は...
吉川英治 「私本太平記」
...百三年後の寛延元年に歿している人だから...
吉川英治 「随筆 宮本武蔵」
...延元(えんげん)の雄(お)たけびを思わすような風の声もして...
吉川英治 「梅里先生行状記」
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