...己酉(つちのととり)(二十八日)……さらに日本(やまと)の乱伍(らんご)...
芥川龍之介 「金将軍」
...八日、己酉、天霽、鎌倉中に兵起るの由、諸国に風聞するの間、遠近の御家人群参すること、幾千万なるかを知らず、和田左衛門尉義盛は、日来上総国伊北庄に在り、此事に依りて馳せ参じ、今日御所に参上し、御対面有り、其次を以て、且は累日の労功を考へ、且は子息義直、義重等勘発の事を愁ふ、仍つて今更御感有りて、沙汰を経らるるに及ばず、父の数度の勲功に募り、彼の両息の罪名を除かる、義盛老後の眉目を施して退出すと云々...
太宰治 「右大臣実朝」
...九日、己酉、天晴、広元朝臣奉行として、御教書を在京の御家人の中に送らる、相州、大官令連署し、又御判を載せらると云々、是在京の武士参向す可からず、関東に於ては、静謐せしめ畢んぬ、早く院御所を守護す可し、又謀叛の輩西海に廻るの由其聞有り、用意致す可きの由なり、宗として佐々木左衛門尉広綱に仰せらると云々、又和田平太胤長、配所陸奥国岩瀬郡鏡沼の南辺に於て誅せらる...
太宰治 「右大臣実朝」
...十三日、己酉、天晴、夜に入つて雷鳴、同時に御所の南庭に、狐鳴くこと度々に及ぶと云々...
太宰治 「右大臣実朝」
...十四日、己酉、霽、将軍家烟霞の興を催され、杜戸浦に出でしめ給ふ、漸く黄昏に及びて、明月の光を待ち、孤舟に棹して、由比浜より還御と云々...
太宰治 「右大臣実朝」
...廿二日、己酉、霽、地震、鷺の怪の事、御占を行はるるの処、重変の由之を申す、仍つて御所を去つて、相州の御亭に入御、亭主は他所に移らると云々...
太宰治 「右大臣実朝」
...一日、己酉、諸人の愁訴相積るの由、聞食すに依りて、年内に是非せしむ可きの旨、奉行人等に仰せらると云々...
太宰治 「右大臣実朝」
...同十四年己酉(きゆう)七月五日神祖(しんそ)より御朱印を賜う...
徳富蘇峰 「吉田松陰」
...己酉より今茲(ことし)甲辰(こうしん)に至り二百三十六年なり)...
徳富蘇峰 「吉田松陰」
...○慶長十四年己酉(きゆう)七月二十五日...
徳富蘇峰 「吉田松陰」
...次年己酉の四月には春が嗣子磐(いはほ)を生んでゐるからである...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...その二百五十七榛軒詩存中に尚此年己酉四月の作と認べきものがある...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...それは「嘉永二己酉偶成...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...」是は己酉五月に令したものである...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...所謂「一昨年」は禁令の出た己酉の歳で...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...己酉の禁令は此に縁(よ)つて発せられたかも知れぬのである...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...二年己酉、三歳...
森鴎外 「能久親王年譜」
...たとえば法住寺殿(ほうじゅうじでん)合戦の当日の記事でも、九条兼実の玉葉には「――十一月十九日、己酉(キイウ)、天(テン)陰(カゲ)ル、時々小雨」とあるが、藤原経房の吉記(きっき)だと「十一月十九日、己酉、天(テン)霽(ハ)レル」とあり、その日の天候さえ、人によって表現がちがう...
吉川英治 「随筆 新平家」
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