...足許見えぬも程があります間抜けで腑抜けで奥詰銃隊藁人形(わらにんぎょう)にも劣った人物遊撃隊にも困ったものだよ槍術剣術...
中里介山 「大菩薩峠」
...状に「戊申進班近士(奥詰)...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...当時の武鑑には、「五百石、奥詰御医師、余語良仙、本郷弓町」として載せてある...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...奥詰医師に「曲直瀬正隆...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...天明八年「儒医之場へ被召出、弘道館学術世話取並御屋形御講釈、」寛政二年「御医師本科、」七年「眼科兼、」十年「儒医、」享和二年「上下格(かみしもかく)御儒者、」文化六年「奥詰、」十年「御使番格、」文政二年「江戸在番、」三年「大御目付被仰付、奥詰並御家中学問世話是迄之通、」七年「御儒者、」十年「奥詰、」天保二年「江戸在番、」以上が官歴の略である...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...同日奥詰出府之所在番」と云つてある...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...同住所の人が奥詰医師となり...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...野間玄琢(げんたく)は「野間安節、寄合御医師、二百俵、呉服橋、」山本楊庵は「山本宗英、法眼、奥御医師、御役料二十人扶持、小川町、」曲直瀬正隆は「曲直瀬養安院、寄合御医師奥詰、千九百石、神田橋外」であらうか...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...渋江至公は必ずや武鑑の「渋江長伯、寄合御医師奥詰、後奥詰御医師、三百俵十人扶持、新道一番町」であらう...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...並に錦橋が奥詰医師となつた後の同僚である...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...宝素小島春庵は前年天保六年に奥詰に進められ...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...己未の武鑑を検すれば「奥詰御医師...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...安政己未に幕府の奥詰医師を拝した...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...正弘の世を去つた丁巳六月十七日より柏軒の奥詰を拝した己未八月廿二日に至る間に夭した人は戊午六月五日に亡くなつた正寧の女操子(さうこ)四歳...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...柏軒は幕府に仕へて頭初より奥詰を拝した...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...その三百八柏軒は己未の歳八月二十二日に幕府の奥詰医師となつた...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...彼には猶「奥詰御医師...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...これは父が奥詰(おくづめ)医師になっているので...
森鴎外 「渋江抽斎」
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