例文・使い方一覧でみる「壯」の意味


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...俺の心には猶ワグネル流な悲と罪惡との豫期がある...   俺の心には猶ワグネル流な悲壯と罪惡との豫期があるの読み方
阿部次郎 「三太郎の日記 第二」

...年(さうねん)の頃(ころ)までは體質(たいしつ)至(いた)つて弱(よわ)く...   壯年の頃までは體質至つて弱くの読み方
關寛 「命の鍛錬」

...麗無比の宴會は開かれて居る...   壯麗無比の宴會は開かれて居るの読み方
千家元麿 「自分は見た」

...酸鼻といふ言葉に據つて辛くも表現できる一種凌の感覺に突き刺されて...   酸鼻といふ言葉に據つて辛くも表現できる一種凌壯の感覺に突き刺されての読み方
太宰治 「先生三人」

...丁出陣の不在を窺ひて日々被害町村に出沒し...   壯丁出陣の不在を窺ひて日々被害町村に出沒しの読み方
田中正造 「公益に有害の鑛業を停止せざる儀に付質問書」

...375いみじや君に麗の肢體と容姿備りて...   375いみじや君に壯麗の肢體と容姿備りての読み方
ホーマー Homer 土井晩翠訳 「イーリアス」

...者を凌ぐ意氣を以て...   壯者を凌ぐ意氣を以ての読み方
土井八枝 「隨筆 藪柑子」

...先づ藩閥を殲滅するの志を奮へば...   先づ藩閥を殲滅するの壯志を奮へばの読み方
鳥谷部春汀 「明治人物月旦(抄)」

...色を作(な)した太子疾が白刃を提げた五人の士を從へて父の居間へ闖入する...   色を作した太子疾が白刃を提げた五人の壯士を從へて父の居間へ闖入するの読み方
中島敦 「盈虚」

...こんな現象は予も夏中屡々目撃して寧ろ快に感じたのであつた...   こんな現象は予も夏中屡々目撃して寧ろ壯快に感じたのであつたの読み方
長塚節 「痍のあと」

...かくの如くしてこの妙な武器と武器との仕合は神戸なにがしの勝つ所となつて白方は金將の役である士が出た...   かくの如くしてこの妙な武器と武器との仕合は神戸なにがしの勝つ所となつて白方は金將の役である壯士が出たの読み方
長塚節 「撃劍興行」

...僕(ぼく)は今も(そう)者に伍(ご)していさぎよく戰(たゝか)ふ關根(せきね)名人の磊落性(らいらくせい)を寧(むし)ろ愛敬(あいけい)し...   僕は今も壯者に伍していさぎよく戰ふ關根名人の磊落性を寧ろ愛敬しの読み方
南部修太郎 「下手の横好き」

...今の人が想像するやうな宏なものではなく...   今の人が想像するやうな宏壯なものではなくの読み方
野村胡堂 「錢形平次捕物控」

...この悲なエゴイストも...   この悲壯なエゴイストもの読み方
萩原朔太郎 「散文詩・詩的散文」

...其長歌若干首、之を誦するに、士劍に舞へば、風、木葉を振ふが如し...   其長歌若干首、之を誦するに、壯士劍に舞へば、風、木葉を振ふが如しの読み方
正岡子規 「東西南北序」

...鼎軒先生には一度もお目に掛かつたことがない、私は少の頃、暇があれば本ばかり讀んでゐたので名家の演説などをもわざ/\聽きに往つたことが殆ど無い、そこで餘所ながら先生のお顏を見る機會をも得ないでしまつた、先生がアアリア人種に日本人も屬するといふことを論じた小册子を出された頃であつた、友人上田敏君が宅の二階に來て、話をしてゐられた、私はふいと思ひ出して、かう云つた、「僕は此頃田口卯吉と云ふ人の書いた本を見たが、日本人がアアリア人種だと云ふ論斷がしてある、そしてその理由として擧げてある言語學上の事實が、間口ばかり廣くて手薄である、學者はあんな輕卒な論斷をしては困るぢやないか、」かう云ふと、上田君が愛敬のある疊なり合つた齒を見せて、意味ありげに笑つた、「田口さんは僕の親類だ、」此時私は始て田口上田兩家の關係を知つた、そして鼎軒先生が幾分か自分に接近して來られたやうに感じた、その後幾年か立つた、或る日又上田君が來て話してゐる間に、かう云はれた、「今度田口の子が卒業して君の部下になるから、どうぞ使つて遣つてくれ給へ、」これが文太さんが陸軍の藥劑官になつた時の事であつた、それから何處やらまだ坊つちやんらしい處の殘つてゐる文太さんに、役所でも役所の外でも次第に心安くなつて、間接に故人鼎軒先生に接近するやうな心持がして來た、彼此するうち、先生の七囘忌が來た、そこで上田君からも文太さんからも、私に何か言へと云ふことである、私は何を言つたら好からう、先生には公生涯と云ふ一面と、學者の經歴と云ふ一面とがある、公生涯の方は私は餘り縁遠いから、何とも云ひ兼ねる、只學者としての鼎軒先生に就いて、大體の事が云ひたい、併しかう引離して、先生の一面丈を説くと云ふことは、稍無理になりはすまいかと思はれる、それは先生の公生涯と學者生涯とは密接してゐるからである、先生のあらゆる學問上の意見には、デモクラチイの影でないまでも、デモクラチスムの影を印してゐる、それで官學と違ふ、此點から言ふと、鼎軒先生の學問は福澤先生に近い、私は一般の人格の上から、兩先生を軒輊しようとは思はない、併し學問に於いては、鼎軒先生の勝つてゐられる處がある、私はそれが言ひたい、私は日本の近世の學者を一本足の學者と二本足の學者とに分ける、新しい日本は東洋の文化と西洋の文化とが落ち合つて渦を卷いてゐる國である、そこで東洋の文化に立脚してゐる學者もある、西洋の文化に立脚してゐる學者もある、どちらも一本足で立つてゐる、一本足で立つてゐても、深く根を卸した大木のやうにその足に十分力が入つてゐて、推されても倒れないやうな人もある、さう云ふ人も、國學者や漢學者のやうな東洋學者であらうが西洋學者であらうが、有用の材であるには相違ない、併しさう云ふ一本足の學者の意見は偏頗である、偏頗であるから、これを實際に施すとなると差支を生ずる、東洋學者に從へば、保守になり過ぎる、西洋學者に從へば、急激になる、現にある許多の學問上の葛藤や衝突は此二要素が爭つてゐるのである、そこで時代は別に二本足の學者を要求する、東西兩洋の文化を、一本づゝの足で蹈まへて立つてゐる學者を要求する、眞に穩健な議論はさう云ふ人を待つて始て立てられる、さう云ふ人は現代に必要なる調和的要素である、然るにさう云ふ人は最も得難い、日本人に取つては、漢學をすると云ふことが、既に外國の古代文學を學ぶのである、西洋人が希臘羅馬の文學を學ぶと同等の難事である、その上に又西洋の學問をしなくてはならない、それも單にポリグロツトな人には比較的容易になられよう、猶進んで西洋の文化が眞に味はれるやうにならうと云ふのは隨分過大な望みである、私は鼎軒先生を、この最も得難い二本足の學者として、大いに尊敬する、先生が一本の足で西洋の文化をどれ丈しつかり蹈まへてゐられたか、他の一本の足で東洋の文化をどれ丈しつかり蹈まへてゐられたか、それを一々具體的に研究するのは、頗る興味のある問題であらう、憾むらくは私は今それ程の餘裕を有せない、只大體から見れば、先生の重點は西洋文化の地面に落ちてゐた、併し隨分幅廣く股を開いて、東洋文化の地面をも蹈んでゐられた、先生は西洋文化の眼を以て東洋文化を觀察して、彼を我に移して、我の足らざる所を、補はうとしてゐられた、先生は此意味に於いて種子を蒔いた人である、併し其苗は苗の儘でゐる、存外生長しない、それは二本足の學者でなくては先生の後繼者となることが出來ないからである、その二本足の學者が容易に出て來ないからである、そして世間では一本足同士が、相變らず葛藤を起したり、衝突し合つたりしてゐる、...   鼎軒先生には一度もお目に掛かつたことがない、私は少壯の頃、暇があれば本ばかり讀んでゐたので名家の演説などをもわざ/\聽きに往つたことが殆ど無い、そこで餘所ながら先生のお顏を見る機會をも得ないでしまつた、先生がアアリア人種に日本人も屬するといふことを論じた小册子を出された頃であつた、友人上田敏君が宅の二階に來て、話をしてゐられた、私はふいと思ひ出して、かう云つた、「僕は此頃田口卯吉と云ふ人の書いた本を見たが、日本人がアアリア人種だと云ふ論斷がしてある、そしてその理由として擧げてある言語學上の事實が、間口ばかり廣くて手薄である、學者はあんな輕卒な論斷をしては困るぢやないか、」かう云ふと、上田君が愛敬のある疊なり合つた齒を見せて、意味ありげに笑つた、「田口さんは僕の親類だ、」此時私は始て田口上田兩家の關係を知つた、そして鼎軒先生が幾分か自分に接近して來られたやうに感じた、その後幾年か立つた、或る日又上田君が來て話してゐる間に、かう云はれた、「今度田口の子が卒業して君の部下になるから、どうぞ使つて遣つてくれ給へ、」これが文太さんが陸軍の藥劑官になつた時の事であつた、それから何處やらまだ坊つちやんらしい處の殘つてゐる文太さんに、役所でも役所の外でも次第に心安くなつて、間接に故人鼎軒先生に接近するやうな心持がして來た、彼此するうち、先生の七囘忌が來た、そこで上田君からも文太さんからも、私に何か言へと云ふことである、私は何を言つたら好からう、先生には公生涯と云ふ一面と、學者の經歴と云ふ一面とがある、公生涯の方は私は餘り縁遠いから、何とも云ひ兼ねる、只學者としての鼎軒先生に就いて、大體の事が云ひたい、併しかう引離して、先生の一面丈を説くと云ふことは、稍無理になりはすまいかと思はれる、それは先生の公生涯と學者生涯とは密接してゐるからである、先生のあらゆる學問上の意見には、デモクラチイの影でないまでも、デモクラチスムの影を印してゐる、それで官學と違ふ、此點から言ふと、鼎軒先生の學問は福澤先生に近い、私は一般の人格の上から、兩先生を軒輊しようとは思はない、併し學問に於いては、鼎軒先生の勝つてゐられる處がある、私はそれが言ひたい、私は日本の近世の學者を一本足の學者と二本足の學者とに分ける、新しい日本は東洋の文化と西洋の文化とが落ち合つて渦を卷いてゐる國である、そこで東洋の文化に立脚してゐる學者もある、西洋の文化に立脚してゐる學者もある、どちらも一本足で立つてゐる、一本足で立つてゐても、深く根を卸した大木のやうにその足に十分力が入つてゐて、推されても倒れないやうな人もある、さう云ふ人も、國學者や漢學者のやうな東洋學者であらうが西洋學者であらうが、有用の材であるには相違ない、併しさう云ふ一本足の學者の意見は偏頗である、偏頗であるから、これを實際に施すとなると差支を生ずる、東洋學者に從へば、保守になり過ぎる、西洋學者に從へば、急激になる、現にある許多の學問上の葛藤や衝突は此二要素が爭つてゐるのである、そこで時代は別に二本足の學者を要求する、東西兩洋の文化を、一本づゝの足で蹈まへて立つてゐる學者を要求する、眞に穩健な議論はさう云ふ人を待つて始て立てられる、さう云ふ人は現代に必要なる調和的要素である、然るにさう云ふ人は最も得難い、日本人に取つては、漢學をすると云ふことが、既に外國の古代文學を學ぶのである、西洋人が希臘羅馬の文學を學ぶと同等の難事である、その上に又西洋の學問をしなくてはならない、それも單にポリグロツトな人には比較的容易になられよう、猶進んで西洋の文化が眞に味はれるやうにならうと云ふのは隨分過大な望みである、私は鼎軒先生を、この最も得難い二本足の學者として、大いに尊敬する、先生が一本の足で西洋の文化をどれ丈しつかり蹈まへてゐられたか、他の一本の足で東洋の文化をどれ丈しつかり蹈まへてゐられたか、それを一々具體的に研究するのは、頗る興味のある問題であらう、憾むらくは私は今それ程の餘裕を有せない、只大體から見れば、先生の重點は西洋文化の地面に落ちてゐた、併し隨分幅廣く股を開いて、東洋文化の地面をも蹈んでゐられた、先生は西洋文化の眼を以て東洋文化を觀察して、彼を我に移して、我の足らざる所を、補はうとしてゐられた、先生は此意味に於いて種子を蒔いた人である、併し其苗は苗の儘でゐる、存外生長しない、それは二本足の學者でなくては先生の後繼者となることが出來ないからである、その二本足の學者が容易に出て來ないからである、そして世間では一本足同士が、相變らず葛藤を起したり、衝突し合つたりしてゐる、の読み方
森林太郎 「鼎軒先生」

...又は少なくとも丁の身のたしなみとして...   又は少なくとも壯丁の身のたしなみとしての読み方
柳田國男 「兒童語彙解説」

...武藏の青年期から年時代などにあつては...   武藏の青年期から壯年時代などにあつてはの読み方
吉川英治 「折々の記」

「壯」の読みかた

「壯」の書き方・書き順

いろんなフォントで「壯」


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奔流のような   率土     

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