...「どうやら道にとりついたようだな」新八は低頭した、「ほんの戸口にすぎません、まだこれからでございます」「私は無風流だから、音曲のことはわからないが、どの道も奥をきわめることはたやすくはないようだ、一生をうちこんでも、これでいいというところまではなかなかゆかぬらしい、だからこそ」と甲斐はゆっくりと云った、「それだからこそ、一管の笛に生涯を賭(か)けることもできるのだろう、――おまえは道にとりついた、それは一生をうちこむに足る道であろう、力をゆるめずに、死ぬまでが修業だと思ってあせらずにゆっくりとやれ」新八は頭を垂れた...
山本周五郎 「樅ノ木は残った」
...「そうむきになるな」と甲斐は呟いた、「おれはいま兵部の一味として、伊達家中ばかりでなく、世間の多くから非難の眼で見られているという、だがこれは、初めから自分で承知していた筈だ、涌谷と松山(茂庭周防)とおれとで合議をしたとき、おれはこの席に坐ったのだ、家中の若者たちから覘(ねら)われるのも、いまに始まったことではない、あの七十郎でさえ去っていったではないか」「しかしこの虚(むな)しさはなんだろう」と甲斐は暫くしてまた呟いた、「自分でこうなることを望んでいたのに、いま非難の注目をあびているということで、こんなに虚しくもの淋しい気分になるのはどういうわけだろう」自分はいまもっとも強くなければならない、これまでのどんなときよりも強く、力をゆるめずに、しっかりと立っていなければならない...
山本周五郎 「樅ノ木は残った」
便利!手書き漢字入力検索
この漢字は何でしょう??