...そこで自分の親友前野良沢(まえのりょうたく)と共にオランダの医者バブルに就(つ)いて大いにその薀奥(うんおう)を究めようとしたのでした...
石原純 「杉田玄白」
...前野良沢と云(い)うのは...
石原純 「杉田玄白」
...玄白は前野良沢と共にそこに赴き...
石原純 「杉田玄白」
...前野良沢(まえのりょうたく)や杉田玄白(すぎたげんぱく)たちが...
高山毅 「福沢諭吉」
...前野但馬守と長子出雲守とが中村式部少輔(しきぶしょうゆう)へ...
谷崎潤一郎 「聞書抄」
...蓋(けだ)し八代将軍吉宗蘭書の禁緩(ゆる)んで以来、我邦(わがくに)蘭書を講ずるもの漸(ようや)く増加し、安永、天明よりして、寛政、文化に及び、杉田、前野、大槻の徒、相接して出で、蛮社(ばんしゃ)の名漸く高く、彼らの崇論高議漸く天下の注意を惹(ひ)けり...
徳富蘇峰 「吉田松陰」
...また通詞側にもそれに乘ずる特殊な空氣があつたのではなからうか?岩崎克己氏は「前野蘭化」で書いてゐる...
徳永直 「光をかかぐる人々」
...林子平が本木良永の門を叩いたと謂はれ、平賀源内、前野良澤、大槻玄澤ら、また長崎を訪れた...
徳永直 「光をかかぐる人々」
...吉雄家は代々長崎通詞であり「日本醫學史」によれば耕牛は吉雄流外科の道を拓いたほか日本の診察術に小便の檢査を加へた最初の人と謂はれ、前野蘭化、杉田玄白も耕牛に師事し「解體新書」の成功も與かつてこの人にあると謂はれるが、圭齋はいはばその三世であつて、日本で最も早い嘉永二年に、自分の三兒に種痘を試みた人だと「日本科學史年表」には書いてある...
徳永直 「光をかかぐる人々」
...前野良沢の「解体新書」が翻刻されてから七十年...
久生十蘭 「玉取物語」
...「前野、杉田の両先覚が、自ら剖刀をとって、われらのために人体の秘隠(ひいん)を説き明(あか)してくれられたが、その後、七十と何年、蘭方医おおよそ三百人、内外の末流に跼蹐(きょくせき)して、ただの一人も執刀術の勉強に身を挺したものがなかったというは、まことにもって不思議なことであったよ...
久生十蘭 「玉取物語」
...伊東玄朴 差図役、相談役戸塚静海 執刀大槻俊斎 監察竹内玄洞 施薬林 洞海 助手三宅良斎 同そこで玄朴が言うには、「前野、杉田の両先生、その以前では山脇東洋が、人体の内臓に刀を入れたじゃが、どちらも構造を見識するにとどまり、のみならず扱われたは、どちらも絶死(ぜっし)の屍(むくろ)であった...
久生十蘭 「玉取物語」
...その後、宝暦明和の頃、青木昆陽、命を奉じてその学を首唱し、また前野蘭化、桂川甫周(ほしゅう)、杉田斎(いさい)等起り、専精してもって和蘭の学に志し、相ともに切磋(せっさ)し、おのおの得るところありといえども、洋学草昧(そうまい)の世なれば、書籍(しょじゃく)はなはだ乏(とぼ)しく、かつ、これを学ぶに師友なければ、遠く長崎の訳官についてその疑を叩(た)たき、たまたま和蘭人に逢わばその実を質(ただ)せり...
福沢諭吉 「慶応義塾の記」
...アカネ茜草指(あかねさす)武良前野逝(むらさきぬゆき)標野行(しめぬゆき)野守者不見哉(ぬもりはみずや)君之袖布流(きみがそでふる)アカネは我邦の何処にも見らるるアカネ科の宿根植物で山野に出ずれば直(す)ぐ見付かる蔓草である...
牧野富太郎 「植物記」
...この前野原の叔母さんが見えたときと同じ滞留の内容では...
宮本百合子 「獄中への手紙」
...前野長岡両家に嫁した姉が二人ある...
森鴎外 「阿部一族」
...對馬には以前野猪が多くて其害に堪へなかつた...
柳田國男 「蒼海を望みて思ふ」
...前野小兵衛(まえのこへえ)を副将とし...
吉川英治 「新書太閤記」
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