...興(きやう)に入る事甚し』(本書は漢文也)件(くだん)の元久二年乙丑より今天保十一年まで凡六百三十余年を歴(へ)て...
京山人百樹刪定 「北越雪譜」
...つひに翌年の元久元年七月十八日に御年二十三歳でおなくなりになられました...
太宰治 「右大臣実朝」
...さてその二代将軍頼家公すなはち後に出家して二品禅室さまには、一幡、善哉、千寿などのお子がございましたが、御長子の一幡さまは、例の比企氏の乱の折に比企氏の御一族と共に北条氏に殺され、御三男の千寿さまも、のちに信濃国の住人泉小次郎親平などの叛謀に巻き込まれ、まもなく出家し栄実と号して京都に居られましたが、またもや謀反の噂を立てられ、京の御宿舎に於いて自殺をなさいまして、御次男の善哉さまはそのやうな御難儀にも遭はず、すくすく御成長なさつてゐたといふわけになるのでございますが、この善哉さまは、元久二年十二月、六歳の暮に、御祖母の尼御台さまの御指図に依り鶴岳八幡宮寺別当尊暁さまの御門弟として僧院におはひりになり、翌る建永元年に、やはり尼御台さまのお計ひに依り、将軍家の御猶子にならせられたのださうでございます...
太宰治 「右大臣実朝」
...前にもちよつと申し上げましたが、この御台所さまは、かしこきあたりとも御姻戚関係がおありになる京の御名家、坊門信清さまの御女子にて、元久元年、御年十三にして当将軍家へ御輿入に相成りました由にございます...
太宰治 「右大臣実朝」
...元久元年正月七日叙従五位上...
太宰治 「右大臣実朝」
...それは元久(げんきゅう)元年のことであったが...
田中貢太郎 「頼朝の最後」
...元久(げんきゅう)の頃詩に歌をあはせられしにもとりわきてこそは見わたせば山もとかすむみなせ川ゆふべは秋となにおもひけむかやぶきの廊渡殿(わたどの)などはる/″\と艶(えん)にをかしうせさせ給へり...
谷崎潤一郎 「蘆刈」
...元久二年正月一日から霊山寺(りょうぜんじ)で三七日(みなぬか)の別時念仏を始めた時も...
中里介山 「法然行伝」
...それは元久元年三月のことで...
中里介山 「法然行伝」
...元久二年八月法然が瘧病(ぎゃくびょう)を患うたことがあった...
中里介山 「法然行伝」
...元久二年正月二十一日世間並の尼女房達が沢山上人の処へ集って来て戒を受け...
中里介山 「法然行伝」
...元久二年に本国に下って...
中里介山 「法然行伝」
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中里介山 「法然行伝」
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中里介山 「法然行伝」
...起請文の日附には何れも元久元年十一月七日と書いてある...
中里介山 「法然行伝」
...元久元年の冬臨終正念(りんじゅうしょうねん)にして端座合掌...
中里介山 「法然行伝」
...元久元年八月上旬に吉水の禅室を辞して...
中里介山 「法然行伝」
...元久二年六月廿一日の條に牧御方請朝雅(去年爲畠山六郎被惡口)讒訴...
原勝郎 「吾妻鏡の性質及其史料としての價値」
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