例文・使い方一覧でみる「亞」の意味


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...佛蘭西人露西人の鑑賞眼にも普遍的の價値は無い...   佛蘭西人露西亞人の鑑賞眼にも普遍的の價値は無いの読み方
會津八一 「趣味の修養」

...や阿弗利加に於けるあらゆる人種の前に――自分は自分勝手に此等の人種を列擧するのではない...   亞細亞や阿弗利加に於けるあらゆる人種の前に――自分は自分勝手に此等の人種を列擧するのではないの読み方
阿部次郎 「三太郎の日記 第三」

...露西は日本より豪い...   露西亞は日本より豪いの読み方
石川啄木 「雲は天才である」

...』と友は言葉を(つ)いだ...   』と友は言葉を亞いだの読み方
石川啄木 「札幌」

...東連盟運動は、世界のあらゆる民族の間に正しき協和を樹立するため、その基礎的團結として、まづ地域的に近接し且つ比較的共通せる文化内容をもつ東諸民族相携えて民族平等なる平和世界を建設せんと努力したるもの、支那事変や大東戰爭には全力をあげて反對したのである...   東亞連盟運動は、世界のあらゆる民族の間に正しき協和を樹立するため、その基礎的團結として、まづ地域的に近接し且つ比較的共通せる文化内容をもつ東亞諸民族相携えて民族平等なる平和世界を建設せんと努力したるもの、支那事変や大東亞戰爭には全力をあげて反對したのであるの読み方
石原莞爾 「新日本の進路」

...ほゝゑみながら若い米利加人に話しかけた...   ほゝゑみながら若い亞米利加人に話しかけたの読み方
ロバート・ルイス・スティーヴンソン 佐藤緑葉訳 「醫師と旅行鞄の話」

...弗利加諸民族とブッシュマンとの關係はこの點から説明せられる...   亞弗利加諸民族とブッシュマンとの關係はこの點から説明せられるの読み方
竹内勝太郎 「淡路人形座訪問」

...儒教を文明と稱せんとする乎...   儒教を亞細亞文明と稱せんとする乎の読み方
竹越三叉 「世界の日本乎、亞細亞の日本乎」

...吾人は已に世界に於ける中心説を排す...   吾人は已に世界に於ける亞細亞中心説を排すの読み方
竹越三叉 「世界の日本乎、亞細亞の日本乎」

...『の日本』たらしむべからず...   『亞細亞の日本』たらしむべからずの読み方
竹越三叉 「世界の日本乎、亞細亞の日本乎」

...春秋の七雄に合して、更に秦に併呑せらるゝが若く、兼并の極は一に歸して已まんには、今日歐洲諸國が其内は歐陸に於て、外は弗利加等に於て、相競て兼并大を致す者、必ずや更に大の大なる者を來す階梯たらずといふを得ず、力に合せんか、露は現に列國の深患大敵とする所にあらずや、財に合せんか、支那人、アングロサクソン人の利に趨る、現に坤輿の精液を吸涸せんとするの概あるにあらずや...   春秋の七雄に合して、更に秦に併呑せらるゝが若く、兼并の極は一に歸して已まんには、今日歐洲諸國が其内は歐陸に於て、外は亞細亞、亞弗利加等に於て、相競て兼并大を致す者、必ずや更に大の大なる者を來す階梯たらずといふを得ず、力に合せんか、露は現に列國の深患大敵とする所にあらずや、財に合せんか、支那人、アングロサクソン人の利に趨る、現に坤輿の精液を吸涸せんとするの概あるにあらずやの読み方
内藤湖南 「學變臆説」

...初めて露西へ旅す...   初めて露西亞へ旅すの読み方
堀辰雄 「リルケ年譜」

...「時祷詩集」は一九〇〇年の露西滯在中に萌芽せしものにして...   「時祷詩集」は一九〇〇年の露西亞滯在中に萌芽せしものにしての読み方
堀辰雄 「リルケ年譜」

...昨日は印度人の行に就てお話し致しましたが、印度人は苦行を以て宗教上大切な勤と看做したのであります、後世では他の宗教に於ても是を尚ぶに至りましたが、印度が一番古い、而して他の宗教に於ける苦行の事は皆印度が元になつて傳はつて來たものと考へられる、印度に於ては昨日もお話し致しました通り如何なる宗派のものと雖も皆苦行をやる、中には隨分非常な方法を以て苦行をなすのであります、何故に苦行を以て宗教上の大切なことと爲すに至つたかと申すことは、昨日もお話申した如く印度バラモンは其人生を四段に分けまして、先づ俗界の勤めを終ると世の中を退いて、神に勤める所の道を修める、俗界に於て俗の生活をなして居る間は、無論總ての自由を得ることが出來るが、修業の爲山林へ隱れると最早俗界快樂の要求を充しやうがなくなつてしまふ、先づ第一に襲ひ來るものは即ち饑渇である、水を得んと欲すれば山の中では仕方がないから、谷川まで下りて行かなければならぬ、食物を取るに至つては尚困難である、だからして草の芽、木の實位を取つて喰べるより他に途はない、着物になると愈六ヶしく、自分では着物を拵へることは無論出來ない、從つて木の葉でも綴つて體を覆うて居る位のことである、然う云ふ工合にして昔の人は山林へ這入つて修業をした、俗界の煩を避け眞正に修業をするには山へ這入るが第一の條件である、苦行は即ち是に附添うて來る自然の結果であつて、道を修めるには何うしても苦行を爲さなければならぬ、所で後世印度人の思ふには昔の豪い聖人と名づくるものは、皆其の苦行をやつて悟りを開いたのである、故に吾々も苦行をやらなければ悟りを開くことが出來ぬ、眞心に神に事へることも出來ないのであると、即ち伴生の結果が一變して唯一の手段と考へられるやうになり、苦行によつて初めて古來の大仙と同じく神と一體になつて神變不可思議の力を得ることが出來るのであると信ずるに至つたのである、序に言ひますが、日本でもお寺のことをアーランニヤ叢林と云ひ、又お寺には平常何々山といふ山號が附いて居るが、元來は山林であつたのである――叡山の如きは文字的に既に叢林であるが――昔時印度人が俗の生活を了つて修業する時は乃ち山へ這入り、人の容易に往かぬやうな靜かな所を選んで此に住して居つたのである、夫から佛教にも傳はつて僧侶の修業し居住する塲所を叢林といひ、又何々山と云ふやうになつたので、此は元來バラモンの遺習である、現に今でも暹羅では上國王より下庶民に至るまで一度はお寺に這入つて僧侶の生活をしなければならぬことになつて居る、是もバラモンが總て一定の時期に至れば叢林の生活をしなければならぬと云ふのと同じ譯である、又日本でも色々の苦行をなすものが今でも隨分澤山にある、例へば千葉の成田の不動の如きに於ては、印度に於けると同じく斷食などが盛に行はれて居るのであります、佛教に此の苦行の法が傳はつて居るやうに、耶蘇教にも此思想が這入込み、カトリツクの方では好んで苦行をなす、彼等も矢張叢林の生活を送り、山へ這入つて饑渇と戰ひ、俗心に克ち、見苦しい着物を着て、一生懸命にバイブルを擴げて研究して居つた、テレザーと云ふ人はカトリツクにおきましては聖人と稱せられた人であるが、此の人は好んで苦行を爲すといふよりも寧ろ苦行を樂んで居つた人である、彼は自ら自分の第一に好む所、最も欲する所のものは苦行である、自分は衷心からして何うか予をして苦ましめよ、然らざれば我をして死せしめよと神に向つて祈願したことの幾回なるを知らぬと云つて居る、苦行は勿論字の如く苦しいことには相違ないが、宗教上の熱心が激して來ると苦行に從事することが却つて面白くなるのである、學術を研究する者や、事物の發見でもなす者は、夏日熱苦しい時節でも一生懸命に研究して居る、傍から見れば夏の酷暑の時だけは休んだら宜からうと思はるるけれども、本人自身には何んとも思はぬ、却つて是を以て面白いと考へて居ると同じ事である、斯樣な譯でありまして印度からして波斯、拉比を經、其の思想慣習が次第に歐羅巴に這入つたことは色々の點に於てあるのでありますが、苦行なども確に其の一であります、印度におきましては王家に生れ、王家に育ちたるものが、其家を棄て山林に隱れたことは澤山にある、御存知の通り佛も亦其内の一人である、而して宗教に熱心にして至心苦行に從事すれば、何んな取るに足らぬ人間でも非常に恐るべき力を得ることが出來ると云ふ信仰も、後世になつて初めて起つた譯ではなくして、極古い時からして既にあつたのである、印度には紀元前五世紀即ち今からは二千四百年ばかり前に出來ましたマハーブハラタと云ふ有名な詩篇があります、其の詩の中にも或人間が矢張前に言つたやうに山林へ這入つて修業し、頭髮は蓬々として亂れ、體には木の皮の編んだものを着け、手足身體總ての處へ泥を塗り――是は一寸妙なことであるが、今でも斯やうな慣習が印度に殘つて居つて今は灰を塗る、額の處や鼻や胸へ或は白、或は赤い灰を塗つて置く――夫れで山間獨住饑渇を忍び且多年の間爪先で立つて居る――是も暫くなら誰でも堪へ得らるるが、朝から晩まで何年もと言つたら中々堪へらるる者でない――而してお負けに眼を開いて天を見て居る――是も何でもないやうに考へらるるが印度は熱帶國で中々苦しいことである――斯う云ふ行をやつた、所が神樣が之を見て思ふには彼はアヽ云ふ困難な苦行をやつて居る、彼が苦行を成就した曉には何んな恐しい力を得るか知れぬ、今の中に早く是を妨ぐるに如かぬと考へ、或は女を見せて誘惑したり或は色々苦しめて見たが、彼は少しも之が爲に屈することなくして遂に其の苦行を成就した、で神は何うしても彼に神變不可思議力を與へなければならぬやうになつた、彼は苦行を成就して得々と宅へ歸り、是までの弊衣を棄て美服に替へ啻に安樂の生活を送つたのみならず、其の神通力によつて月をして毎晩自分の住んで居る處の町を照らさしめたといふことが書いてある、實に日月の行動でも自由自在に變ずることが出來ると考へ、而して然う云ふ不思議な力も苦行によつて得られるものであると云ふことは、紀元前四五百年の頃から既に存在した信仰であつたのである、で苦行さへすれば何んな不思議なことも出來、神と雖も又彼を如何ともすべからざるので、天人共に恐れざるを得ざるものであると考へて居つた、でありますから隨分古い時代からして苦行の事は傳はつて居ります、佛教の古い經文の内にも説いてある所がある、其の當時の方法を見ると實に今やつて居る所と殆ど違はない、ドウ云ふことをやつたかと云ふに、先づ第一に書いてあるのは、二日三日四日五日乃至七日間も斷食をやるとか、或は食物に於ては果物或は野菜ものばかりを食つて居るとか、最も妙なのは牛糞を食とするとか、或は鹿糞ばかりを食用として居るものもある、又手を擧げるとか――是れには片手を高く上に擧ぐるものと兩手を擧げるものとある――是も長くやつて居るのは中々困難で後にはコワ張つて最早や手が下に下りぬやうになる、之を下す時には油のやうなものを塗つて摩擦して段々と下す、常態に復する迄には大抵三箇月を要するといふことである、又床には坐らないで始終踞つて居るものもあれば、荊棘の上に坐するものもある――是れは今でもやりますが今は刺でなくして釘の上に坐つて居たり、又は靴の中へ釘を打つて是を穿いて居る――或は裸體となつて牛糞の上に坐する――牛糞は元來印度人の非常に神聖なものと考ふる所で、穢い所を奇麗にするには牛糞を塗る、牛は大切な神獸であつて牛を殺す者は人を殺したよりも罪は重いのである――夫から又日中に三浴し或は一夜に三浴する――是は三遍水を浴びるので、印度には到る處に池のやうなタンクがあり、其の内へ這入つて水を浴びて居る、其水溜は又風呂塲ともなり洗濯塲ともなれば田の灌漑にも用ひられる、以上の行は佛時代にやつて居つた一例であります、今の苦行者も此等の方法は皆やつて居りますが、段々と新しい工夫を考へ何でも人のやれないやうなことをなすものもある、現時普通に行はるるものの二三を云へば、先づ五火の苦行があり、是れも昔からあつたものであるが、四方に薪を集めて火を燃やし自分は眞中に坐つて居る、其の坐つて居る前にモー一つ火を焚くこともあるが、又前の火だけは是れを止め苦行者が天の日を凝視して居ることもある、何れも五火となる、寒い所なら宜いが、印度のやうな熱帶地方での火攻めは中々容易なことではない、まだ不思議なのは木の枝から繩を下げて自分の胴を結はひて、そして斜になつて前方へ寄掛つて居つたり、或は片足で立つて居る、是時は片方の手で一足を上へ持ち擧げて居るのである、モツと不思議なのは木を三本斯う云ふ工合に寄せ、上から繩で足をクヽり附けて倒まに釣り下つて居つたり、又は太い鎖の長いやつを首の邊から身體全體に卷附けて立つて居るのもある、然う云ふことをやつて夫で以て宗教上大切な務をなすものと考へて居る、此等の苦行者には無論住所と云ふものが一定して居らない、方々彷徨うて居つて或は寺或は河岸或は木の下などへ往つてやつて居る、斯う云ふ行者も生きて居る間は食はなければならぬが何うして食物を得るかと云ふに、行をして居る間は自分で食物を取り來ることは出來ないが、ソコは印度であつて中々重寳に出來て居る、或る行者が何處其處の木の下に居るとか、或は水邊に居るとか云ふ評判が立つと其近邊の者は男女老少を擇ばず、皆態々供養の爲食物を持運んで來て呉れるので少しも不自由はない、而して苦行が終ると云ふ時は動もすると何千人何百人を限つて施餓鬼のやうな事をやる、此時も行者が一度信者に此事を言ひ出せば忽ちに其評判が擴がつて、諸方の信者が爭うて色々な品物を持つて來て山の如くに積み重ねる、是で以て供養をやるのである、行者は一錢も費すことなくして尚多くの餘裕を生ずるのである、下等なものになりますると大抵四月頃盛に苦行を行ふが、是れは日本の山伏がやると同じやうに或は火の上を走るとか、或は鐵の串をば舌に刺したり、頬に刺したり腕へ刺したりする、此等の下等な見世物的苦行者の目的とする所は、唯信者の供養を受け金錢財物を得るが爲である、兎に角斯る不思議な事を近來に至るまでやつて居るのである、而して其の方法も精神も共に皆二千年以前のと殆ど變らない、其の反映が面白い、一方に汽車がかかつて居り片方に然う云ふ苦行をやつて居る、之を惡く云へば印度人は畢竟光明の世界を去つて好んで暗黒の世界に就て居るのである、文明の利器が如何程あつても彼等には一切用がない、善くいへば物質的文明の世界を去つて精神的の世界に安住して居るのである、物質的科學の研究は彼等の顧みざる所であつて、昔から主として精神的の宗教、哲學と云ふ部分にのみ其の精力を傾注したが今は唯其の形骸を守るのみである、實に宗教は印度人の生命とする所であつて、人生の最も大切なものとして居るのである、で英人が印度を領するにも直接宗教には一切關係しないことを以て其の方針として居る、印度人には宗教より大切なものはないのであるから、少しでも是に干渉したならば彼等は死に至る迄反抗するか然らざれば皆移轉してしまふ、印度人の移轉は實に簡略なもので、何時何處へでも行くことが出來る、であるからして誠に宗教の事に關係すると始末に負へないことになる、印度人は政治上の事に就てはマルで關係しない、誰が來て王になつても無頓着である、政治上の事などは俗な事である、自分の生命は宗教の中に在りと考へて居る、從つて一方に於ては色々不思議な迷信も生じますし、又色々不都合な事も出來ましたけれども、兎に角精神的の方面に於ては世界に甚だ偉大なる貢獻を爲して居ると云ふことも忘るべからざることであります、是れからは其の最も重なる文學と哲學と宗教との三項に就き少しく印度が世界に於て何れだけの貢獻を爲したかと云ふことをお話しやうと思ひます...   昨日は印度人の行に就てお話し致しましたが、印度人は苦行を以て宗教上大切な勤と看做したのであります、後世では他の宗教に於ても是を尚ぶに至りましたが、印度が一番古い、而して他の宗教に於ける苦行の事は皆印度が元になつて傳はつて來たものと考へられる、印度に於ては昨日もお話し致しました通り如何なる宗派のものと雖も皆苦行をやる、中には隨分非常な方法を以て苦行をなすのであります、何故に苦行を以て宗教上の大切なことと爲すに至つたかと申すことは、昨日もお話申した如く印度バラモンは其人生を四段に分けまして、先づ俗界の勤めを終ると世の中を退いて、神に勤める所の道を修める、俗界に於て俗の生活をなして居る間は、無論總ての自由を得ることが出來るが、修業の爲山林へ隱れると最早俗界快樂の要求を充しやうがなくなつてしまふ、先づ第一に襲ひ來るものは即ち饑渇である、水を得んと欲すれば山の中では仕方がないから、谷川まで下りて行かなければならぬ、食物を取るに至つては尚困難である、だからして草の芽、木の實位を取つて喰べるより他に途はない、着物になると愈六ヶしく、自分では着物を拵へることは無論出來ない、從つて木の葉でも綴つて體を覆うて居る位のことである、然う云ふ工合にして昔の人は山林へ這入つて修業をした、俗界の煩を避け眞正に修業をするには山へ這入るが第一の條件である、苦行は即ち是に附添うて來る自然の結果であつて、道を修めるには何うしても苦行を爲さなければならぬ、所で後世印度人の思ふには昔の豪い聖人と名づくるものは、皆其の苦行をやつて悟りを開いたのである、故に吾々も苦行をやらなければ悟りを開くことが出來ぬ、眞心に神に事へることも出來ないのであると、即ち伴生の結果が一變して唯一の手段と考へられるやうになり、苦行によつて初めて古來の大仙と同じく神と一體になつて神變不可思議の力を得ることが出來るのであると信ずるに至つたのである、序に言ひますが、日本でもお寺のことをアーランニヤ叢林と云ひ、又お寺には平常何々山といふ山號が附いて居るが、元來は山林であつたのである――叡山の如きは文字的に既に叢林であるが――昔時印度人が俗の生活を了つて修業する時は乃ち山へ這入り、人の容易に往かぬやうな靜かな所を選んで此に住して居つたのである、夫から佛教にも傳はつて僧侶の修業し居住する塲所を叢林といひ、又何々山と云ふやうになつたので、此は元來バラモンの遺習である、現に今でも暹羅では上國王より下庶民に至るまで一度はお寺に這入つて僧侶の生活をしなければならぬことになつて居る、是もバラモンが總て一定の時期に至れば叢林の生活をしなければならぬと云ふのと同じ譯である、又日本でも色々の苦行をなすものが今でも隨分澤山にある、例へば千葉の成田の不動の如きに於ては、印度に於けると同じく斷食などが盛に行はれて居るのであります、佛教に此の苦行の法が傳はつて居るやうに、耶蘇教にも此思想が這入込み、カトリツクの方では好んで苦行をなす、彼等も矢張叢林の生活を送り、山へ這入つて饑渇と戰ひ、俗心に克ち、見苦しい着物を着て、一生懸命にバイブルを擴げて研究して居つた、テレザーと云ふ人はカトリツクにおきましては聖人と稱せられた人であるが、此の人は好んで苦行を爲すといふよりも寧ろ苦行を樂んで居つた人である、彼は自ら自分の第一に好む所、最も欲する所のものは苦行である、自分は衷心からして何うか予をして苦ましめよ、然らざれば我をして死せしめよと神に向つて祈願したことの幾回なるを知らぬと云つて居る、苦行は勿論字の如く苦しいことには相違ないが、宗教上の熱心が激して來ると苦行に從事することが却つて面白くなるのである、學術を研究する者や、事物の發見でもなす者は、夏日熱苦しい時節でも一生懸命に研究して居る、傍から見れば夏の酷暑の時だけは休んだら宜からうと思はるるけれども、本人自身には何んとも思はぬ、却つて是を以て面白いと考へて居ると同じ事である、斯樣な譯でありまして印度からして波斯、亞拉比亞を經、其の思想慣習が次第に歐羅巴に這入つたことは色々の點に於てあるのでありますが、苦行なども確に其の一であります、印度におきましては王家に生れ、王家に育ちたるものが、其家を棄て山林に隱れたことは澤山にある、御存知の通り佛も亦其内の一人である、而して宗教に熱心にして至心苦行に從事すれば、何んな取るに足らぬ人間でも非常に恐るべき力を得ることが出來ると云ふ信仰も、後世になつて初めて起つた譯ではなくして、極古い時からして既にあつたのである、印度には紀元前五世紀即ち今からは二千四百年ばかり前に出來ましたマハーブハラタと云ふ有名な詩篇があります、其の詩の中にも或人間が矢張前に言つたやうに山林へ這入つて修業し、頭髮は蓬々として亂れ、體には木の皮の編んだものを着け、手足身體總ての處へ泥を塗り――是は一寸妙なことであるが、今でも斯やうな慣習が印度に殘つて居つて今は灰を塗る、額の處や鼻や胸へ或は白、或は赤い灰を塗つて置く――夫れで山間獨住饑渇を忍び且多年の間爪先で立つて居る――是も暫くなら誰でも堪へ得らるるが、朝から晩まで何年もと言つたら中々堪へらるる者でない――而してお負けに眼を開いて天を見て居る――是も何でもないやうに考へらるるが印度は熱帶國で中々苦しいことである――斯う云ふ行をやつた、所が神樣が之を見て思ふには彼はアヽ云ふ困難な苦行をやつて居る、彼が苦行を成就した曉には何んな恐しい力を得るか知れぬ、今の中に早く是を妨ぐるに如かぬと考へ、或は女を見せて誘惑したり或は色々苦しめて見たが、彼は少しも之が爲に屈することなくして遂に其の苦行を成就した、で神は何うしても彼に神變不可思議力を與へなければならぬやうになつた、彼は苦行を成就して得々と宅へ歸り、是までの弊衣を棄て美服に替へ啻に安樂の生活を送つたのみならず、其の神通力によつて月をして毎晩自分の住んで居る處の町を照らさしめたといふことが書いてある、實に日月の行動でも自由自在に變ずることが出來ると考へ、而して然う云ふ不思議な力も苦行によつて得られるものであると云ふことは、紀元前四五百年の頃から既に存在した信仰であつたのである、で苦行さへすれば何んな不思議なことも出來、神と雖も又彼を如何ともすべからざるので、天人共に恐れざるを得ざるものであると考へて居つた、でありますから隨分古い時代からして苦行の事は傳はつて居ります、佛教の古い經文の内にも説いてある所がある、其の當時の方法を見ると實に今やつて居る所と殆ど違はない、ドウ云ふことをやつたかと云ふに、先づ第一に書いてあるのは、二日三日四日五日乃至七日間も斷食をやるとか、或は食物に於ては果物或は野菜ものばかりを食つて居るとか、最も妙なのは牛糞を食とするとか、或は鹿糞ばかりを食用として居るものもある、又手を擧げるとか――是れには片手を高く上に擧ぐるものと兩手を擧げるものとある――是も長くやつて居るのは中々困難で後にはコワ張つて最早や手が下に下りぬやうになる、之を下す時には油のやうなものを塗つて摩擦して段々と下す、常態に復する迄には大抵三箇月を要するといふことである、又床には坐らないで始終踞つて居るものもあれば、荊棘の上に坐するものもある――是れは今でもやりますが今は刺でなくして釘の上に坐つて居たり、又は靴の中へ釘を打つて是を穿いて居る――或は裸體となつて牛糞の上に坐する――牛糞は元來印度人の非常に神聖なものと考ふる所で、穢い所を奇麗にするには牛糞を塗る、牛は大切な神獸であつて牛を殺す者は人を殺したよりも罪は重いのである――夫から又日中に三浴し或は一夜に三浴する――是は三遍水を浴びるので、印度には到る處に池のやうなタンクがあり、其の内へ這入つて水を浴びて居る、其水溜は又風呂塲ともなり洗濯塲ともなれば田の灌漑にも用ひられる、以上の行は佛時代にやつて居つた一例であります、今の苦行者も此等の方法は皆やつて居りますが、段々と新しい工夫を考へ何でも人のやれないやうなことをなすものもある、現時普通に行はるるものの二三を云へば、先づ五火の苦行があり、是れも昔からあつたものであるが、四方に薪を集めて火を燃やし自分は眞中に坐つて居る、其の坐つて居る前にモー一つ火を焚くこともあるが、又前の火だけは是れを止め苦行者が天の日を凝視して居ることもある、何れも五火となる、寒い所なら宜いが、印度のやうな熱帶地方での火攻めは中々容易なことではない、まだ不思議なのは木の枝から繩を下げて自分の胴を結はひて、そして斜になつて前方へ寄掛つて居つたり、或は片足で立つて居る、是時は片方の手で一足を上へ持ち擧げて居るのである、モツと不思議なのは木を三本斯う云ふ工合に寄せ、上から繩で足をクヽり附けて倒まに釣り下つて居つたり、又は太い鎖の長いやつを首の邊から身體全體に卷附けて立つて居るのもある、然う云ふことをやつて夫で以て宗教上大切な務をなすものと考へて居る、此等の苦行者には無論住所と云ふものが一定して居らない、方々彷徨うて居つて或は寺或は河岸或は木の下などへ往つてやつて居る、斯う云ふ行者も生きて居る間は食はなければならぬが何うして食物を得るかと云ふに、行をして居る間は自分で食物を取り來ることは出來ないが、ソコは印度であつて中々重寳に出來て居る、或る行者が何處其處の木の下に居るとか、或は水邊に居るとか云ふ評判が立つと其近邊の者は男女老少を擇ばず、皆態々供養の爲食物を持運んで來て呉れるので少しも不自由はない、而して苦行が終ると云ふ時は動もすると何千人何百人を限つて施餓鬼のやうな事をやる、此時も行者が一度信者に此事を言ひ出せば忽ちに其評判が擴がつて、諸方の信者が爭うて色々な品物を持つて來て山の如くに積み重ねる、是で以て供養をやるのである、行者は一錢も費すことなくして尚多くの餘裕を生ずるのである、下等なものになりますると大抵四月頃盛に苦行を行ふが、是れは日本の山伏がやると同じやうに或は火の上を走るとか、或は鐵の串をば舌に刺したり、頬に刺したり腕へ刺したりする、此等の下等な見世物的苦行者の目的とする所は、唯信者の供養を受け金錢財物を得るが爲である、兎に角斯る不思議な事を近來に至るまでやつて居るのである、而して其の方法も精神も共に皆二千年以前のと殆ど變らない、其の反映が面白い、一方に汽車がかかつて居り片方に然う云ふ苦行をやつて居る、之を惡く云へば印度人は畢竟光明の世界を去つて好んで暗黒の世界に就て居るのである、文明の利器が如何程あつても彼等には一切用がない、善くいへば物質的文明の世界を去つて精神的の世界に安住して居るのである、物質的科學の研究は彼等の顧みざる所であつて、昔から主として精神的の宗教、哲學と云ふ部分にのみ其の精力を傾注したが今は唯其の形骸を守るのみである、實に宗教は印度人の生命とする所であつて、人生の最も大切なものとして居るのである、で英人が印度を領するにも直接宗教には一切關係しないことを以て其の方針として居る、印度人には宗教より大切なものはないのであるから、少しでも是に干渉したならば彼等は死に至る迄反抗するか然らざれば皆移轉してしまふ、印度人の移轉は實に簡略なもので、何時何處へでも行くことが出來る、であるからして誠に宗教の事に關係すると始末に負へないことになる、印度人は政治上の事に就てはマルで關係しない、誰が來て王になつても無頓着である、政治上の事などは俗な事である、自分の生命は宗教の中に在りと考へて居る、從つて一方に於ては色々不思議な迷信も生じますし、又色々不都合な事も出來ましたけれども、兎に角精神的の方面に於ては世界に甚だ偉大なる貢獻を爲して居ると云ふことも忘るべからざることであります、是れからは其の最も重なる文學と哲學と宗教との三項に就き少しく印度が世界に於て何れだけの貢獻を爲したかと云ふことをお話しやうと思ひますの読み方
松本文三郎 「世界に於ける印度」

...その傳記が口から口へと傳はつて拉比からシリアへ入り此にヨザフアート物語なるものとなつた...   その傳記が口から口へと傳はつて亞拉比亞からシリアへ入り此にヨザフアート物語なるものとなつたの読み方
松本文三郎 「世界に於ける印度」

......   の読み方
三好達治 「南窗集」

...魯西行の勞を問ひ慰めて後...   魯西亞行の勞を問ひ慰めて後の読み方
森鴎外 「舞姫」

...陸つゞきで大陸の奧の方から...   陸つゞきで亞細亞大陸の奧の方からの読み方
柳田國男 「蒼海を望みて思ふ」

「亞」の読みかた

「亞」の書き方・書き順

いろんなフォントで「亞」


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