...(戊子の年三月十五日癸丑の日崩りたまひき...
稗田の阿礼、太の安万侶 「古事記」
...戊子(つちのえね)の年の三月十五日癸丑(みずのとうし)の日にお隱れなさいました...
稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 「古事記」
...おもふに癸辛雑識は唐本にて且又容易には得がたき書なれば...
京山人百樹刪定 「北越雪譜」
...三日、癸卯、小雨灑ぐ、義盛粮道を絶たれ、乗馬に疲るるの処、寅剋、横山馬允時兼、波多野三郎、横山五郎以下数十人の親昵従類等を引率し、腰越浦に馳せ来るの処、既に合戦の最中なり、仍つて其党類皆蓑笠を彼所に棄つ、積りて山を成すと云々、然る後、義盛の陣に加はる、義盛時兼の合力を待ち、新羈の馬に当るべし、彼是の軍兵三千騎、尚御家人等を追奔す、義盛重ねて御所を襲はんと擬す、然れども若宮大路は、匠作、武州防戦し給ひ、町大路は、上総三郎義氏、名越は、近江守頼茂、大倉は、佐々木五郎義清、結城左衛門尉朝光等、各陣を張るの間、通らんと擬するに拠無し、仍つて由比浦並びに若宮大路に於て、合戦時を移す、凡そ昨日より此昼に至るまで、攻戦已まず、軍士等各兵略を尽すと云々、酉剋、和田四郎左衛門尉義直、伊具馬太郎盛重の為に討取らる、父義盛殊に歎息す、年来義直を鍾愛せしむるに依り、義直に禄を願ふ所なり、今に於ては、合戦に励むも益無しと云々、声を揚げて悲哭し、東西に迷惑し、遂に江戸左衛門尉能範の所従に討たると云々、同男五郎兵衛尉義重、六郎兵衛尉義信、七郎秀盛以下の張本七人、共に誅に伏す、朝夷名三郎義秀、並びに数率等海浜に出で、船に掉して安房国に赴く、其勢五百騎、船六艘と云々、又新左衛門尉常盛、山内先次郎左衛門尉、岡崎余一左衛門尉、横山馬允、古郡左衛門尉、和田新兵衛入道、以上大将軍六人、戦場を遁れて逐電すと云々、此輩悉く敗北するの間、世上無為に属す、其後、相州、行親、忠家を以て死骸等を実検せらる、仮屋を由比浦の汀に構へ、義盛以下の首を取聚む、昏黒に及ぶの間、各松明を取る、又相州、大官令仰を承り、飛脚を発せられ、御書を京都に遣はす...
太宰治 「右大臣実朝」
...七日、癸卯、鷹狩を停止す可きの旨、諸国の守護人等に仰せらる、事度々厳命有りと雖も、放逸の輩、動もすれば違犯有るの旨、聞食し及ぶに依りて、此の如しと云々、但し所処の神社の貢税の事に於ては、制するの限に非ずと云々...
太宰治 「右大臣実朝」
...五日、癸卯、霽、鶴岳の別当公暁、宮寺に参籠して、更に退出せられず、数ヶの祈請を致され、都て以て除髪の儀無し、人之を恠しむ、又白河左衛門尉義典を以て、大神宮に奉幣せんが為、進発せしむ、其外諸社に使節を立てらるるの由、今日御所中に披露すと云々...
太宰治 「右大臣実朝」
...天保四年癸巳には閏月は無く...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...実文政癸未八月十七日...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...霞亭は備後に往つた文化十年癸酉から算して...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...「癸未元日...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...癸酉以後の事蹟には...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...文化癸酉三十七歳より前でなくてはならない...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...柏軒の冢子(ちようし)鉄三郎が癸亥の歳に既に「徳安」と称してゐたことを知る...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...柏軒の歿した文久癸亥に妾春が末子孫祐(まごすけ)を生んだ...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...その三百六十わたくしは棠軒日録を抄して明治癸酉の歳暮に至つた...
森鴎外 「伊沢蘭軒」
...六年癸未 平八郎三十一歳...
森鴎外 「大塩平八郎」
...十五日に三歳の癸巳(きし)を失っていた...
森鴎外 「渋江抽斎」
...三年癸亥、十七歳...
森鴎外 「能久親王年譜」
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